魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

立ち往生

2020年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
大雪で、また大量の車が動けなくなった。メディアは一斉に「車が立ち往生している」と報道した。テロップに「立往生」と表示され、「たちおうじょう」、「たちおうじょう」と連呼されると、大変なことなのだが、何か微笑ましい気がする。
近年、事務的で堅苦しい用語が日常に浸透し、世間に情が通わず、融通の利かない、寛容性の無い社会になっているが、そのことに、みな気づいているのだろうか。

例えば、「お使いください」を、「ご使用ください」と言う。意味はわかるが、その様が浮かばない。「つかう」は、幅広いイメージを含むアバウトな言葉だが、「使用」は、語意を限定した意味だけ強調する、いわゆる、木で鼻をくくったような漢語だ。
「つかう」は大局の現実を把握し、深く理解、納得ができる。「魔法使い」は行為も人も含むが、「魔法使用」と言えば、目的のある行為に限定される。
昔は、職人などが訪問先で手弁当を食べる時、「弁当をつかわせてください」のように、「つかう」を遣った。とにかく、和語の言葉遣いは曖昧なだけに、一言で意思の核心が理解できた。 
「人使い」と「人使用」では含む幅が違うし、腰づかいを腰しようとは言わない。

「往生」も漢語だが、長く仏教と共に行き渡っているので、逝去や物故のような、限定的で改まった意味ではなく、ほぼ「死ぬ」に等しい和語の感覚で根付いている。
「死ぬほど困る」という意味で、関西では「往生するわ!」が常套句だから、漫才の大木こだま・ひびきの「~往生しまっせ」も、すんなり笑いにつながる。
納得のいく死に方を、わざわざ「大」往生と言うほど、往生は死ぬと同化している。
また、往生際が悪いのように、諦めて終わりにすることなど、死から終わりまで幅広い。

「立ち往生」は、弁慶が死んでも立っていた故事から、特別な出来事を強調する訴求力がある。
大量の車が「死ぬほど難儀している」は大げさだが、「往生している」と言えば車も運転手も困っていることが伝わる。それを、さらに、「たちおうじょう」と言えば、状況から当事者の心境まで、大変なことが一言で把握できる。
昨今の、漢語や外語だらけの殺伐とした世界に、「たちおうじょう」は、ポンと咲いた蓮の花のように聞こえるから、大変なことなのに、何かほっこりする。
メディアも言いながら、よほどなじむのだろう、やたら連呼するメディアのはしゃぎ様が伝わってくる。
「往生」は元々、あの世に「往き」あの世に「生まれ」かわることで、弁慶は立ったまま往ってしまったが、
どこにも往けない大量の車は往生もできない
~往生しまっせ!?