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2020年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
12月は忠臣蔵の季節だ。
この物語は何の疑いもなく、極悪人吉良上野介を討つ話だが、吉良上野介の立場や気持ちは、全く考えられることはない。
よくもここまで一方的な物語だと感心するが、日本人は何の疑いも持たずにきた。近年、上野介の立場を解説する言説も、ちらほら見かけるようになったが、吉良上野介の立場を少しでも認めたら、この話は全く成り立たなくなる。

吉良家の側から見れば、完全な逆恨みの被害者だ。赤穂に製塩を伝授し、世間知らずの若い領主のお役目が上手く行くように気配りしたことが、裏目に出て逆恨みされ、さらに末代までの汚名を着せられた。

韓国の反日は、日本人からすれば、全く理解出来ないが、韓国では日本はまさに極悪非道の吉良上野介であり、愛国者であれば絶対に仇討ちしなければならない、忠臣蔵の世界なのだ。国中がこの芝居にどっぷりはまっているから、考え直す余地はない。
芝居や小説、映画や歌というものは、仮想現実、ファンタジーの世界だが、これを思考の肥やしと考える人は少数で、ほとんどの人が、その世界を現実のものと思い込んでしまう。
ストーリーのディテールが細かいほど、設定そのものの真偽は忘れられる。

忠臣蔵は、その筋書きを真実とした上で、派生する物語が多く加わり、物語そのものの原点の真偽など完全にすっ飛んでいる。そんな芝居フアンに、本当は吉良上野介は良い人だったんだよ、などと言っても聞く耳を持たないし、意味もない。
吉良上野介の立場など考えたら、これまで払った木戸銭は何だったんだと言うことになる。流した涙を返してくれと言うことになる。
それどころか、吉良の領民でも、この芝居を見れば、上野介のせいで吉良が悪く思われるようになったと思い、赤穂の人に謝るかもしれない。

反日の韓国は日本の嫌韓を徹底的に非難するが、「嫌」は拒否ではない。しかし、「反」は敵視であり拒否だ。
吉良は浅野を敵視していなかったから、仇として敵対してくる浅野家臣に、積極的反撃ではなく、防備しかしなかったために、襲撃され汚名まで着せられた。
吉良家は積極的に情宣活動をすべきだったのだろうが、家柄のプライドと教養が邪魔をしたのかもしれない。