魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

良い現象

2015年11月08日 | 星の流れに

射手座に土星が来たことで、多くの射手座に良い事は無いが、土星故に脚光を浴びたり、何らかの成果を出せる人もいる。

冷えて萎縮する土星の影響は、時間や、野心、責任、孤独だが、この度、藤田嗣治の映画が公開されるらしい。「偉人伝」としてみれば獅子座の「栄光」の側面もあるが、「伝記」としては、山羊座の土星の「歴史」になる。
射手座の藤田の伝記には、野心と責任、孤独が絡んでいる。映画公開はタイムリーだ。

また、雅子妃の公務復帰も、土星の伝統、政治、責任感の影響だろう。
「ニコニコ町会議 in 大阪」とやらに、小林幸子が出演して大喝采とのことだが、これも土星だろうが、何のことかサッパリ解らない。

夢のまま


この程度

2015年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

渋谷区で、同性カップルを夫婦と同等に扱う制度が5日から始まった。
婚姻制度の概念からの見直しを考えている者としては、逆に、苛立ちに近いものを感じるが、ステップ・バイ・ステップと考えれば、これでも、大きな一歩なのだろう。

婚姻による社会構成を前提にしていること自体が、人類の大きな足かせになっているのに、同性さえも、結婚を目標にしなければならない。そのレベルで揉めていることに、むしろ逆行さえ感じる。

社会保障が完璧ならば、婚姻による個別の保証は必要ない。
動物だった原始の昔から、男女の交配は安全な子供の養育保証を必要とし、そのために、様々な社会形態と婚姻の形式が生まれた。
今日まで婚姻が残っているのは、人間が未だに動物社会を超越できていない証拠だ。

どんな結びつきであっても、子供の養育が保証されていれば、婚姻は必要ない。
婚姻の無い社会とは、自由な個人で構成される社会であり、一緒に暮らしたいのであれば暮らせば良いし、離れたいのなら離れれば良い。そこに、性や人種など、個人の資質は一切、関係ない。

子供は国の宝という言葉が本当なら、育て方も、個々の自由で良いはずだ。
基本の基本として、社会が子供の面倒を見ることになっているから、子供の帰属も先ずは母親に始まり、個々の関係によって、様々な育て方を、個々が話し合って自由に決めれば良い。
この前提であれば、幼児虐待も、子供の奪い合いも、子供の貧困も起こりようがない。

こういう社会になると、親子関係が無いのは可哀相・・・などという概念からして生まれてこない。誰の子意識、親子意識も、現在では想像ができないほど希薄であり、そして、そこに自由を感じる。

現在の概念でしか考えられない人は、そんなことはあり得ないと思うだろうが、今の我々に、江戸時代の忠義や孝行の感覚は、実は、理解できない。
もし、当時の感覚そのままでドラマを作れば、ほとんど全く意味が解らなくなるだろう。
他国の文化感覚も同じように、日本人のほとんどは、イスラム教徒にとって死ぬほど受け入れられないことが、どんなものであるのか、理解できないだろう。

そういうことと同じように、今の「有るべき姿」と思っていることは、必ずしも絶対ではないし、制度が変われば、感覚も価値観も変わってしまう。

今、社会で起こっている様々な家族問題のほとんどが、婚姻制度に起因していることに気づけば、この婚姻制度を根本的に考え直さなければならないことが、容易に理解できるだろう。
もはや社会状況は、夫婦別姓とか、同性婚程度で騒いでいるような段階ではない所まで来ている。


よりしろ

2015年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム

いつも通る横町には、街灯の死角になるポイントがあって、ほとんど光の無い通りがある。
深夜、その横町にさしかかると、100メートルぐらい向こうの塀の下の闇に、人影らしきものが見える。近づいていくと、やはり人のようだ、さらに近寄っていくと、顔面に髪を垂らした、青白い顔が闇の中に浮かび上がった・・・背筋が寒くなり、身体がこわばる

次の瞬間、『なんだ、こんなところでスマホをいじっていたら危ないぞ』と、思わず口に出そうになった。

スマホをいじり出す時、ほとんどの人が状況を忘れている。山の中だろうが、交差点の真ん中だろうが、画面に埋没してしまって、自分の肉体の置かれた状況が見えなくなる。
まだ、立ち止まっているのは良い方で、自転車に乗ってスマホをいじりながら、交差点を渡ってくる若い子は、人の命も自分の魂も、スマホ・フェレスに売り渡したファウストだ。彼らには、どんな運命が待っているのだろう。

魂を売り渡す物は、スマホだけではない。カメラを持ったとたん、どこでも強気に侵入できる人。ハンドルを握ると、王様になったように横暴になる人。バイクに乗ると、夜道でも怖くなくなる人、自転車に乗っただけでも安心する人。全て思い込みの世界だ。
物によって、我を忘れ、自分が無くなるのは、仮面や入れ墨で変貌する、原始からの人間の本性なのかも知れない。

社会に依存して生きる人間は、元々、仮想世界に依存して生きている。だから、その依存の依り代が一つ変わると、簡単に人格が変貌する。仮面を付け替えるだけで別人になれる。
仮面が外見的な意味合いを定義するように、カメラの冷酷な観察機能はカメラマンの図々しさを演出する。ハンドルを持てば強大な馬力のモンスターになる。

何にも無い時の穏やかな人格は、社会の望む姿だから、穏やかな人ほど、依り代によって変貌しやすい。むしろ、日頃、トガったと言われる人の方が、物によって変貌することが少ない。元々が仮想世界に染まらない人だからだ。言い方を変えれば野性的で動物的ということだろうか、集団に馴染まない無頼だ。

良き社会人ほど、依り代が一つ変われば、豹変する危険性がある。
戦場の人間は、まっとうな社会の依り代を失う。何人であろうと、まともな神経では過ごせない。平成の日本人の中には、戦前の日本軍が聖戦を戦った神軍のような前提で考える人がいるが、人間が、いかに頼りないものであるかを、もう一度、冷静に考えてもらいたいものだ。


日本的型

2015年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

ホリエモンが、「寿司職人が何年も修行するのはバカ」とツイートして物議を醸しているという、サイト紹介があった。
伝統と、ホリエモンとどっちが正しいか、一概には言えないが、
思い出したのは、柴田錬三郎が「図々しい奴」で、羊羹のとらやに入った主人公が、年功序列の規制を無視して、いきなり羊羹を作ってしまう話だ。
この柴田錬三郎の反骨精神と同じものを感じるというか、ホリエモンは実践している。

日本人は、あらゆることを、常に型にはめようとする。これは、何も日本人だけでもなく、礼儀作法など、どこの国でもその傾向はあるが、日本ほど、他の文化に邪魔されずに過ごした国は珍しいから、どんなに間違ったことでも、型にはめることが、簡単に、まかり通ってしまう。
そして、型にはめることが、最も確実なことだと信じる文化が生まれた。

この空気で過ごしている日本人にとっては、全く無意識で気付かないことだが、例えば家元制度とか、何でもかんでも神社に祭るなど、これも、形を作ってしまって、それからでなければ考えられない日本文化の有り様のひとつだ。

飯炊き3年にぎり8年のような、形式の中でこそ、本質が理解できるのだと言われれば、これをどんな論理でもって否定しても、誰も納得しない。理屈ではない、その型にはそれなりの理由があるという、信仰心の方が説得力があるのが日本の社会だ。

確かに、スポーツでも学習でも、定型の方法に則ってやれば、多くの人には効果的だ。
しかし、天才的な能力を持った人の場合、時にはそれが阻害要因にもなる。
日本文化の型の多くは優れていることが多いかも知れないが、同時にそれは、限界を作り出し、可能性を抹殺する。
また、同時に、型による退廃も起こる。杭のデータ不正や、小保方氏の博士号取り消しなども、形式主義の退廃によるものだ。

こうした、日本的「型の信仰」の否定という意味で、ホリエモンの言うことには大いに納得できるし、同時に、型の中にある大枠の真理、時間と経験が育む「実力の厚み」という側面にも納得ができる。

要は、日本的型の尊重には、常に、型が全てではない、「しょせん型」であるという認識が必要だと言うことだろうか。


夢のまま

2015年11月02日 | 星の流れに

三省堂教科書採択問題、小保方氏の博士号取り消し、認知症老人連続交通事故、携帯料金値下げ指示、日本郵便クワガタ誤配送敗訴・・・これでもかというほど、射手座土星の話題で賑わっている。
三省堂の「三」も、博士号を取り消した「大学」も、交通も通信も射手座だ。ちなみに、教科書は双子座だが、学校は乙女座で、木星が乙女座に来て変容宮の問題が一気に増えた。もとより、海王星が魚座に鎮座しているから、なおさらだ。

日本郵政グループの株もいよいよ売り出しだが、長期保有は別として、NTTの記憶を夢見たら当て外れになりそうだ。郵政3社というのも気になる。
膨張木星の射手座に、萎縮土星が来ている今、具体的に悪いとは言えなくても、
「なんだかな~」的な、落ちがありそうだ。

しかし、射手座の中には、土星で過去の実績を評価されている人もいる。
また、仲代達矢は久々に、問題老人役でテレビドラマに顔を出したし、桐谷美玲は世界の美しい顔8位だった。仲代の「有名老人」も、桐谷の「8位」も、土星の象徴だ。

一方、中国では、空前の映画ブームだそうで、映画館が賑わっている。
中国は土星サソリ座の3年間、海王星魚座と連なる大チャンスに、木星も加わって、「一帯一路」、大中華の夢を見た。AIIBの大結集まで果たし、夢の旗を掴んだかに見えた。
しかし、今、土星も木星も去り、残ったのは魚座の海王星だけになった。海王星は「虚像」であり、残ったのは、夢を夢見る映画だけということか。
それとも、シナ海を本当にモノにしてしまうのだろうか。

なお、「一帯一路」は、陸海シルクロードの過去の夢の再現であり、土星の「過去」と海王星の「夢」が織りなす、正に大きな夢の話しだ。
中国共産党は、土星サソリ座の3年で何かを学んだのだろうか。むしろ、中国人民の方が大きく学んだのかも知れない。


ガス抜き

2015年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム

チラ見の「世界不思議発見」は、米の話題だったが、黒柳徹子は、「食糧難で育ったのでどんな米でも、食べられたら幸せ」のようなことを言っていた。
以前も、街で「どんなものが好物ですか?」と聞いて回ると、年寄りは口を合わせたように、「私ら、どんなものでも頂きます」と答えていた。

食糧難は記憶にない世代だが、それでも、ご飯を残すことができない。周囲からも、学校でも、「お百姓さんが、一粒一粒、一生懸命作ったお米です」と教えられて育った。だから、年を取ってからは、牛丼でも、「ご飯は少なくしてください」と言うようになった。
おそらく、そういう年寄りが多いのだろう。近頃はほとんどの外食で、快くご飯を減らしてくれるようになった。始めの頃は、結構、嫌な顔をされることが多く、マズイ思いをして食べた記憶が少なくない。

ところが、この「アラ難」(アラウンド食糧難)世代なのに、市井の人気店で「不味い!」と、食べない人を何人か見たことがある。また、奥さんの愚痴からも聞いたことがある。
何れも、食通を自認する人ばかりだったが、共通していることは、成金で、おそらく、子供時代には相当、飢えていたであろう人だ。

自分が出世して、高級料理店で常食するようになったことが、よほどかけがえの無いことなのだろう。庶民の人気店で、「不味い」と、食べ残してみせることが、ステイタス意識を満足させるようだ。

「食べ物を粗末にしない」ことを教えられて育った人にとっては、理解できない行為だが、その食べ物が無い状態の子供にとっては、粗末も何も、有れば食べてしまうものだったから、食物に対する敬意どころではなく、むしろ、食べ物は仇のような存在だったのかも知れない。

その仇に打ち克ち、今や、「余裕のこのオレ」だから、生かすも殺すもオレ次第。敢えて、放生会の魚のように、食べないで見せる満足感・・・なのだろうか。
そういう自らの背景を晒していることを、何も気づかないことが、実に気の毒で、観ている方が恥ずかしくなる。

自分が注文した以上は、きれいに食べる。無理なら始めから少なくしてもらう。これは美味い不味いの問題ではなく、食物に対する敬意と感謝の問題だ。

願っても得られなかった子供の頃の、仇を取るために、大人になったらまとめて買うのを「大人買い」というらしい。
中国人が豊になって買いあさる「爆買い」も同じ事で、一度、買い尽くしてみなければ、渇望感が癒えないのかも知れない。

今、中国の、南シナ海や東シナ海での爆行や、「日本をやっつけた」と大声を上げる軍事パレードも、同じ事だ。軍部の70年にわたる思いの丈は、一度、発散しなければ収まらないのかも知れない。
こちらとしては、どうやって無害に、ガス抜きをしてもらうかが、大問題なのだ。