チラ見の「世界不思議発見」は、米の話題だったが、黒柳徹子は、「食糧難で育ったのでどんな米でも、食べられたら幸せ」のようなことを言っていた。
以前も、街で「どんなものが好物ですか?」と聞いて回ると、年寄りは口を合わせたように、「私ら、どんなものでも頂きます」と答えていた。
食糧難は記憶にない世代だが、それでも、ご飯を残すことができない。周囲からも、学校でも、「お百姓さんが、一粒一粒、一生懸命作ったお米です」と教えられて育った。だから、年を取ってからは、牛丼でも、「ご飯は少なくしてください」と言うようになった。
おそらく、そういう年寄りが多いのだろう。近頃はほとんどの外食で、快くご飯を減らしてくれるようになった。始めの頃は、結構、嫌な顔をされることが多く、マズイ思いをして食べた記憶が少なくない。
ところが、この「アラ難」(アラウンド食糧難)世代なのに、市井の人気店で「不味い!」と、食べない人を何人か見たことがある。また、奥さんの愚痴からも聞いたことがある。
何れも、食通を自認する人ばかりだったが、共通していることは、成金で、おそらく、子供時代には相当、飢えていたであろう人だ。
自分が出世して、高級料理店で常食するようになったことが、よほどかけがえの無いことなのだろう。庶民の人気店で、「不味い」と、食べ残してみせることが、ステイタス意識を満足させるようだ。
「食べ物を粗末にしない」ことを教えられて育った人にとっては、理解できない行為だが、その食べ物が無い状態の子供にとっては、粗末も何も、有れば食べてしまうものだったから、食物に対する敬意どころではなく、むしろ、食べ物は仇のような存在だったのかも知れない。
その仇に打ち克ち、今や、「余裕のこのオレ」だから、生かすも殺すもオレ次第。敢えて、放生会の魚のように、食べないで見せる満足感・・・なのだろうか。
そういう自らの背景を晒していることを、何も気づかないことが、実に気の毒で、観ている方が恥ずかしくなる。
自分が注文した以上は、きれいに食べる。無理なら始めから少なくしてもらう。これは美味い不味いの問題ではなく、食物に対する敬意と感謝の問題だ。
願っても得られなかった子供の頃の、仇を取るために、大人になったらまとめて買うのを「大人買い」というらしい。
中国人が豊になって買いあさる「爆買い」も同じ事で、一度、買い尽くしてみなければ、渇望感が癒えないのかも知れない。
今、中国の、南シナ海や東シナ海での爆行や、「日本をやっつけた」と大声を上げる軍事パレードも、同じ事だ。軍部の70年にわたる思いの丈は、一度、発散しなければ収まらないのかも知れない。
こちらとしては、どうやって無害に、ガス抜きをしてもらうかが、大問題なのだ。