魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

この程度

2015年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

渋谷区で、同性カップルを夫婦と同等に扱う制度が5日から始まった。
婚姻制度の概念からの見直しを考えている者としては、逆に、苛立ちに近いものを感じるが、ステップ・バイ・ステップと考えれば、これでも、大きな一歩なのだろう。

婚姻による社会構成を前提にしていること自体が、人類の大きな足かせになっているのに、同性さえも、結婚を目標にしなければならない。そのレベルで揉めていることに、むしろ逆行さえ感じる。

社会保障が完璧ならば、婚姻による個別の保証は必要ない。
動物だった原始の昔から、男女の交配は安全な子供の養育保証を必要とし、そのために、様々な社会形態と婚姻の形式が生まれた。
今日まで婚姻が残っているのは、人間が未だに動物社会を超越できていない証拠だ。

どんな結びつきであっても、子供の養育が保証されていれば、婚姻は必要ない。
婚姻の無い社会とは、自由な個人で構成される社会であり、一緒に暮らしたいのであれば暮らせば良いし、離れたいのなら離れれば良い。そこに、性や人種など、個人の資質は一切、関係ない。

子供は国の宝という言葉が本当なら、育て方も、個々の自由で良いはずだ。
基本の基本として、社会が子供の面倒を見ることになっているから、子供の帰属も先ずは母親に始まり、個々の関係によって、様々な育て方を、個々が話し合って自由に決めれば良い。
この前提であれば、幼児虐待も、子供の奪い合いも、子供の貧困も起こりようがない。

こういう社会になると、親子関係が無いのは可哀相・・・などという概念からして生まれてこない。誰の子意識、親子意識も、現在では想像ができないほど希薄であり、そして、そこに自由を感じる。

現在の概念でしか考えられない人は、そんなことはあり得ないと思うだろうが、今の我々に、江戸時代の忠義や孝行の感覚は、実は、理解できない。
もし、当時の感覚そのままでドラマを作れば、ほとんど全く意味が解らなくなるだろう。
他国の文化感覚も同じように、日本人のほとんどは、イスラム教徒にとって死ぬほど受け入れられないことが、どんなものであるのか、理解できないだろう。

そういうことと同じように、今の「有るべき姿」と思っていることは、必ずしも絶対ではないし、制度が変われば、感覚も価値観も変わってしまう。

今、社会で起こっている様々な家族問題のほとんどが、婚姻制度に起因していることに気づけば、この婚姻制度を根本的に考え直さなければならないことが、容易に理解できるだろう。
もはや社会状況は、夫婦別姓とか、同性婚程度で騒いでいるような段階ではない所まで来ている。