魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

よりしろ

2015年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム

いつも通る横町には、街灯の死角になるポイントがあって、ほとんど光の無い通りがある。
深夜、その横町にさしかかると、100メートルぐらい向こうの塀の下の闇に、人影らしきものが見える。近づいていくと、やはり人のようだ、さらに近寄っていくと、顔面に髪を垂らした、青白い顔が闇の中に浮かび上がった・・・背筋が寒くなり、身体がこわばる

次の瞬間、『なんだ、こんなところでスマホをいじっていたら危ないぞ』と、思わず口に出そうになった。

スマホをいじり出す時、ほとんどの人が状況を忘れている。山の中だろうが、交差点の真ん中だろうが、画面に埋没してしまって、自分の肉体の置かれた状況が見えなくなる。
まだ、立ち止まっているのは良い方で、自転車に乗ってスマホをいじりながら、交差点を渡ってくる若い子は、人の命も自分の魂も、スマホ・フェレスに売り渡したファウストだ。彼らには、どんな運命が待っているのだろう。

魂を売り渡す物は、スマホだけではない。カメラを持ったとたん、どこでも強気に侵入できる人。ハンドルを握ると、王様になったように横暴になる人。バイクに乗ると、夜道でも怖くなくなる人、自転車に乗っただけでも安心する人。全て思い込みの世界だ。
物によって、我を忘れ、自分が無くなるのは、仮面や入れ墨で変貌する、原始からの人間の本性なのかも知れない。

社会に依存して生きる人間は、元々、仮想世界に依存して生きている。だから、その依存の依り代が一つ変わると、簡単に人格が変貌する。仮面を付け替えるだけで別人になれる。
仮面が外見的な意味合いを定義するように、カメラの冷酷な観察機能はカメラマンの図々しさを演出する。ハンドルを持てば強大な馬力のモンスターになる。

何にも無い時の穏やかな人格は、社会の望む姿だから、穏やかな人ほど、依り代によって変貌しやすい。むしろ、日頃、トガったと言われる人の方が、物によって変貌することが少ない。元々が仮想世界に染まらない人だからだ。言い方を変えれば野性的で動物的ということだろうか、集団に馴染まない無頼だ。

良き社会人ほど、依り代が一つ変われば、豹変する危険性がある。
戦場の人間は、まっとうな社会の依り代を失う。何人であろうと、まともな神経では過ごせない。平成の日本人の中には、戦前の日本軍が聖戦を戦った神軍のような前提で考える人がいるが、人間が、いかに頼りないものであるかを、もう一度、冷静に考えてもらいたいものだ。