一緒にいる男が、通りすがりの女を見たと、嫉妬して怒る女の人がいる。この逆に、女が男を見て男が怒るケースは、あまり無い。
人それぞれだが、こういう女の人は、昔ながらの感性のままで考えている、いわゆる「女」だ。(ジェンダーの)
男女の平等というものは、人格の平等で、生理の均質では無い。
オスの性行動は視覚により、メスの性行動は記憶によるというのは、今ではほとんど定説だ。
メスが、子供の養育に必要な物理的保証を基準にするのに対し、オスは子孫を残すチャンスで考える。
メスは子供の養育条件を比較するために、オスの力量を比較しなければならないから記憶が必要だ。
オスは自分の身体では育てられないから、なるべく多くのメスに委ねなければならない。したがって常に、チャンスを求めて周囲を見回している。
メスがじっくり、それぞれのオスを比較するのに対し、オスは見ただけで個別に、性行動に移ろうとする。ただしチャンスがあればの話だ。
人間社会は、動物よりは複雑な力関係とルールで、おいそれとは性行動に移れないようになっている。
だから、人間のメスを見ても性行動に移ろうと考えるわけではない。
しかし、オスのDNAは無駄な行為を止められない。舗装道路でウンコを取ってもらった犬の、後足で砂を掛ける仕草のようなものだ。
オスに染みこんだ習性を責めるのは、後足を掻く犬を叱るようなもので、酷な話だ。
それどころか、これを怒る女の人に限って、男の目を惹きつけるあらゆる努力をしている。
男がそういう動物であることを承知で、自分自身が男を惹きつけようとし、それが自分の魅力と思っているから、男が他の女に目をやることに我慢ができない。男が他の女に惹きつけられるのではと心配だ。
男は、見て観察するのは当たり前のこと、風景を見る程度のことだと思っているから、一緒にいる女が他の男を見てもたいして気にならない。ただ、いわゆる「男」はむしろ、女が見られることを気にする。
平等の関係
男女が平等に付き合うことは、人間として平等に付き合うことであり、違いを認め合うことだ。全く同じ行動を取ることではない。
しかし、男女差別がハッキリしていた時代の頭のまま解放されると、男女の仲は所有の関係だと勘違いする。結婚指輪などもそうだが、ペアルックなどはその最たるもので、互いが完全に一体化できるものだと信じ合う。だから、嫉妬し合うことが愛情だとも考える。
男女の仲を人格同士の付き合いと考える人は、互いの異性間の違いをむしろ面白がる。チョロチョロ女を見たりする男の習性を、犬の砂かけのように、「バカなやつ」と、面白がったり哀れんだりする。
もっと進めば、二人で品定めを楽しんだりする。
そういう考え方になれない人は、古風で原始的なのであり、自ら因習の檻に暮らしているのだが、そのことは当然、野生を残しているので、セクシーであったり、イヤらしかったりする要因になるのだろう。