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占いという もう一つの眼

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2011年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ベトナム戦争が終わる頃。まだ、ロックや反戦の時代で、アジアや日本は、今とは違う理由で、若者のトレンドだった。

その頃会った、日本に来ていたアメリカ人女性は、本による知識がふんだんにあり、おとぎ話まで挙げて、日本論を繰り広げていた。
後に、彼女と同年代のクリントン大統領の日本に対する言動を観て、ほとんど同じものを感じた。ステレオタイプなのだ。

ことに、日本は男尊女卑であり、女が虐げられ、女には何の力もないという前提で話を展開するので、「日本は潜在的に女の国」であると説明するのには、英語力のつたなさもあって、相当苦労した。
そこで、古代には女帝が多数いたことを例に挙げると、かなり驚いていた。

だから後に、クリントンが大統領になった時、『まずいな』と思ったが、恐れたことは現実になった。日本に対する豊富な知識が、むしろ、訳知りの無理解となり、日本を無慈悲にたたき落とすことになった。

今日でも、世界の認識は、日本を男尊女卑の国としており、その認識が、逆に、国内の偏狭な女性運動家に影響を与えている。

立前の日本は、儒教的価値観で男尊女卑が貫かれてきたが、元々、母系母性の文化であり、日本の歴史は、本音は女に依存して成り立っている。日本史上の偉人のほとんどが、母に何らかの影響を受けたマザコンだが、これは、儒教文化の本質で、アジア全体の傾向でもある。

欧米にはファザコンの話はやたらあるが、東洋のようにマザコンが美談になることは少ない。

欧米に始まる女性運動にしても、男の絶対優位を前提にした、女権拡張であり、騎士道のように、か弱い女を守る強い男の概念が背景にある。何か悲惨な事件があると、女子供には見せないようにし、女は箱に入れて保護するものとされている。

日本も近年はそういう価値観に影響されて、「僕が守る」が決まり文句になったが、いつの間にか、女が守ることになっていたりする。
男女どちらが守るにせよ、騎士道的なモチーフは、元来、アジアには無いようだ。

「女に手を上げるな」はあっても、積極的に守る美意識はない。
女は不浄であり、魔性であり、守るより、避けるもの、つまり、放っておいても生き抜く、大自然のような生命力があると思われており、それを前提にアジアの文化は成り立っている。

もし、肉体的、環境的に対等なら、欧米女性より、アジアの女性の方が圧倒的に強い。今回の女子サッカーのみならず、他のスポーツにもその傾向が見られるが、論理を超越した「芯」の強さ=生命力から来るものだ。

しかし、男性の得意分野、理想や論理となると、どうも欧米にはかなわないようだ。
国際法や、知的所有権などのルール作りはもとより、国家、主権、プライドなど、理念こそが「戦争の素」となるのだが、
女性戦士族アマゾンは、ヘラクレスに敗れたことになっている。