魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

一髪解決(1)

2011年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

死人の髪(カミ)は伸びるそうだが、だんだん近づいているのか、年を取るほど髭(ヒゲ)が濃くなるような気がする。
髭というのは元来、ライオンのたてがみのようなもので、男らしさのアピールのためにあるのだろうが、産業革命パラダイムで、安全カミソリが大量生産されるようになってからは、髭を剃るのが文明人の身だしなみになった。(大草原難行苦行

水事情の悪いアラブ諸国のようなところでは、いまでも髭は男の身だしなみで、髭を生やしてない男はみっともなくて、見ている方が恥ずかしいそうだ。

慣れというのは、恐ろしくも滑稽なもので、見慣れたスタイルと違う格好をすると、周囲からは非難されるし、自分もそわそわ落ち着かなくなる。

文明開化で髷(マゲ)を切るようになった時、断髪令以前から、総髪や散髪していた人が相当いたようだ。初めて西洋式の散髪を見た人は、相当違和感があっただろう。ビートルズのマッシュルーム・カットも、当初は世界中が大騒ぎで、若者がマネをすると、年寄りが怒り出し、至る所で混乱が巻き起こった。

何時の時代も若者は、新しいものに挑戦する。しかし同時に、旧概念を守ろうとする若者も必ずいる。保守の若者も、新しいものを否定する年寄りのように、旧概念を守りたいのではない。若者にとっては、旧概念も新鮮であり、どちらの側であれ、新しいものへの挑戦なのだ。

理想に向かうことは、エネルギーにあふれる若者にとって、当然のことであり、新旧の入り口の違いにかかわらず、より良い結果を模索すればいいのだが、残念なのは、自分の衝動の意味に気づかず、姿の違いにとらわれて対立し、消耗してしまうことだ。

明治維新の混乱の後、あるいは、家康の天下統一の後、志を失わなかった人々は、敵味方にかかわらず、協力して国家建設に当たった。
対立感情にとらわれ理想を忘れる人は、何時の時代も必ずいる。大乱の後には、西南の役や五稜郭、島原の乱のような、意地の戦争がつきものだ。負け試合の後のフーリガンのようなもので、今の政局混乱も、ほとんどこれだ。

また、倒閣運動が成功しないのも、理想の無い年寄りの抵抗だからだ。見慣れないスタイルに戸惑い「変な髪型を切れ!」と怒鳴っているだけで、新しい方向性を打ち出すわけでもない。試合に勝てないのは髪型のせいだという監督のように、何の根拠も、説得力もない。

身だしなみ
志のない人は、見た目、形にとらわれる。
世の中が、停滞している時には、ファッションや髪型は変わらない。
混乱が起きると、異様なスタイルが流行りだす。それは、人々の中に熱気と志がわき起こるからだ。

フランス革命後の女性の短髪は有名だが、冷戦下のベトナム戦争にはヒッピースタイルや、ミニスカート。不況下の丸刈りなど・・・
「常識にとらわれていてはダメだ」という気持ちが、思い切ったスタイルの変化になった。

しかし、どういったファッションにしても、身だしなみを整えるには、大変な労力がいる。化粧と言えば、女の仕事のように思われているが、宿命的にオシャレに気を遣わなければならないのは、オスの方だ。

髭が伸び、頭が禿げるのはセックスアピールで、本来、ヒゲを剃ったり冠り物をするのは、鷹の爪隠しなのだが、モノセックス化する現代では、ヒゲ、ハゲ、体臭は、隠すのがスタイルの常識で、ヒゲも刈り込みで整えなければならないし、ハゲは笑いものになる。

オシャレに費やすエネルギーは、社会的にも大変なものだが、個人的には必ずしも楽しいものではない。スイッチオンで変身できればどんなに楽だろう。髪や髭が伸びるたびにそう思う。

これだけ特殊メイクが発達したのだから、ヅラなどケチなことをしないで、頭からスッポリかぶれる、美人マスクや男前マスクはできないものだろうか。

→「一髪解決(2)


表裏一体(2)

2011年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

親が死ぬのは特別のことではない。
むしろ、子に先立たれる方が不自然であり、昔は、「親に先立つ不幸」として、死んだ子が悪いとされた。もちろん、死んだ子に責任は無いのだが、生き残った親への慰めと、軽々しく死んではいけないという戒めがある。

多くの偉大な宗教は、自殺を禁じている。哲学としての宗教の目的は「生きる」ことであり、生きることを知るために、死を語る。
しかし、これを取り違えて、死を目的にしてしまう人もいる。

中には、ギリギリの修行で死ぬ人もいるが、これは死を目的にしていたわけではなく、生を追求した結果だから無意味ではない。
精一杯、生きる過程で死ぬとすれば、無駄死にではない。

「死」は、決して目的ではないが、そこに向かって「生き」ていることに気づき、「生」を考えるには、先ず認めなければならい事実だ。
そして、あらゆる立場、状況において、迷い無く「生」に専念できるようにするのが宗教の価値だ。

だから、恨みや妬みや後悔のない人、迷いのない人、感情に囚われない人には、宗教は必要ない。
だが、感情に囚われない人などいない。怒り、悲しみ、喜び・・・感情こそが、生のエネルギー源でもある。エネルギーの制御は、原発だけではない、人間こそ難しい。

エネルギー制御を日々勤めていくことこそが、死ぬまで止むことのない修行であり、それを菩薩道という。

こうした修行は、何も、山に籠もって滝に打たれたり座禅を組んだりするだけが方法ではない。日常にあって、朝から晩まで、日々自己と対話し、問い続けることにある。

むしろ、喧噪渦巻く濁世にあってこそ、自己制御の必要は大きくなる。
市井の何でもない人こそ、真の求道者でなければならない。
そのことに気づいた凡夫こそが、菩薩ではなかろうか。

凡夫にさえなれぬ、犬人間にはそう思える。

スマイル


表裏一体(1)

2011年07月03日 | 占いばなし

「5年前から良い運に入りました」と、言うと
「でも、その間に両親が亡くなりましたが」と言われた。
そこから、少々長い説明が必要になった。

まず、良い運という場合、正しくは、強い運と、幸せな運がある。
良い時期と親の死が重なる人は、強い運だ。
親が死んで運が悪くなるのは、幸せな運の人だ。
世間的には強運とされる人でも、実は幸運の最大級の人もいれば、幸運と言われる人も、強運で得た結果だけでそう見られる人もいる。

何らかの結果を出しても、何か大きなものを失うような人は、強い運の人で、スペシャリストに多い。
スポーツ選手などが、試合の直前に親が死んで、金メダルを手にしながら「天国のオトウサン見ていますか」といったケースは実に多い。
選手は若いから、一般と比較して、明らかに若い時に死別している。

一方、田中角栄のようにお母さんが亡くなったとたん、バタバタと運が悪くなる人もいる。これは幸運型の最大級で、秀吉などもこれに当たる。

誰でも、親は何時か死ぬ。親の死が、開運につながる人もあれば、ケチのつき始めの場合もある。
立派に成功していながら、両親が健在で交流のある人は、幸運の人であり、生死に関わらず、早くから親に離別する人は強運の人だ。

昔は、養子で親と別れることが多かったが、多くは、それによって開運している。吉田茂などもその例だ。
最も開運した人といえば、お釈迦さんだろう。生まれたとたん生母が死んでいる。

強運の人は、人生において、何らかの壁をぶち破っていく。
幸運な人は、様々な人に好かれ、引き立てられて出世する。
田中角栄や秀吉は、敵らしい敵を作らなかった。
吉田茂などは敵だらけだったし、戦国武将の多くは親兄弟と対立、離別している。
お釈迦さんなど、何から何まで失って、悟りを得た、スペシャリスト中のスペシャリストだ。

親の死と良い運が重なる人は、親が死んで、そこから本当の自分の運が始まる。
親が死ぬことで、ガックリする人と、シッカリする人の違いが出る。
親が死ねば、怒る人も喜んでくれる人も居なくなり、それを自由と考えるか、張り合いが無くなるかが、強運と幸運の違いだ。

60も過ぎて親が健在の人は、幸運の人であり、親も自分の運の一部と考えて、大切にした方が良い。若くして、親を失った人は、自分の人生はいよいよこれからだと、気合いを入れ、早く亡くなった親に感謝して生きれば良い。親がなければ、プラスはないがマイナスもない。


自然の子

2011年07月02日 | 動物

今年のツバメは、寒い春のせいか、来るのが遅かった。
ようやくやって来たものの、メスの勧誘に手間取ったらしく、巣に泊まるようになったのは、5月23日からだった。

2、3日すると、卵が一つ落ちて割れていたが、卵は抱き続けている。
何があったんだろう?

それから、雛が生まれるまで、異常に長く、例年より一週間ぐらい長く抱いている。
一個落ちた経緯から、もしかしたら、オス同士の争いで、ちゃんと交尾できず、無精卵を抱いているんじゃなかろうか。と、心配になって、気を揉んだが、どうにか生まれたらしく餌を運び始めた。

すると、また2、3日して、卵が一個落ちていた。今度は割れてない。
指が触れた途端、割れて、中はカチカチに乾燥して凝縮していた。
結局、雛は2羽だけだ。

2羽しかいないから、親が餌を運んでくるのもノンビリで、雛も、争うでもなく、5羽の時のような騒がしさもない。

それでも、栄養充分だったのか、生まれてからの成長は早かった。
6月30日に飛んだが、夜はまだ帰ってきて、日が暮れるまで親が餌を運んでいる。

初めて飛び立った日に、空き巣を除いたら、やっぱり、卵が1固残っていた。ちゃんと5固は産んでいたが、成長したのは2羽。
それでも、ヘビやカラスにやられた時から考えれば、まだ上出来で、出生率2.0と言うことになるが、難しい自然界を考えれば、日本の少子化より問題だ。

いつもいつも大変な目に遭いながら、毎年やって来るツバメに、ここは危険だぞと言ってやりたいが、ドリトル先生にはなれない。
巣が造れないようにしておこうかとも思うが、近頃は、手頃な環境が減っているとも聞く。

近くの大型店舗には、毎年、多くの巣が並んで、騒がしく子育てをしていたが、出入り口の真上だから、文句を言った客がいたのか、今年は、巣作りできないようにアミが被せてあった。
それでも、ここと決め込んだツバメが、アミの上に巣をかけ始めて、できあがったら、重みでゴロリとアミごと前にひっくり返り、ぶら下がってしまった。

「業」
それぞれ、様々な困難に遭いながら、全体には激減するわけでもない。個々の不幸では絶滅しないが、気候変動による環境変化の方が、繁殖適地の喪失や移動につながる。

人間も、病気や災害など、様々な困難に見舞われながら生きているが、そう簡単には絶滅しない。
人間にとって、最も危険なことは、目の前で起こる悲劇や辛い体験より、そうしたもの全てを巻き込みながら進んでいく、営みそのものの毒性だ。

セイタカアワダチソウは、ススキの繁殖地に毒をまき、ススキを滅ぼしながら繁殖し、ススキが絶滅すると、今度はその毒で自分達が亡ぶ。
人間は、考える葦だそうだから、このままでは亡ぶ、と気づく人はいるが、人類が方向転換出来るとは限らない。

温暖化問題をインチキだと言う人も、原発をやむを得ない選択だという人も、神の忠実なしもべだ。
自然の摂理である「滅びへの必然」に忠実に従い、抗おうとはしない。
人間が滅びるとすれば、それは神の選択なのだろう。