魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

アマテラス(2)

2011年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アマテラス(1)」で、日本人の原子力信仰のワケを考えたが、
もう一つ、世界の中で、おそらく日本人だけ違う感覚ではないかと思われるのが、放射能への恐怖感だ。

世界の人々にとって、放射能は「得体の知れない恐怖」だが、日本人にとっては、「知っている恐怖」だ。
もちろん、核実験やチェルノブイリのように、日本以外でも被爆体験をした人達がいるし、ニュースとしては認識しているだろうが、社会の中に被爆体験が存在しない。

日本の場合、自分自身が被爆していなくても、情報、教育、生活を通して、核の恐怖が追体験され、国民の全てが、潜在的被爆者になっている。
第五福竜丸事件なども重なり、核に対する恐怖心と嫌悪感は、議論の余地がない。

しかし、その反面、原爆の現実も見ている。外国人にとって、核はリーサルウエポンであり、核の向こうには何も存在しないぐらいの恐怖感があるが、日本人は65年経っても、被爆体験者から話を聞くことができる。

同じ拒否感、同じ恐怖心でも、体験したことのある恐怖と、体験したことのない恐怖は種類が違う。
体験したことのない恐怖は、際限なく膨らむ。

日本人が放射能の話を聞く時は、「どの程度?」と、現実的な聞き方ができるが、体験したことがない人にとっては、「有る・無し」の問題だ。程度問題で考えることができない。

世界中に、この、とてつもない恐怖感があったからこそ、核は抑止力として、長崎の後、一度も使用されることがなかった。逆に、北朝鮮は核保有にこだわり、韓国では日本に原爆を打ち込む小説が大ヒットした。

今、中国では日本の貨物船が荷揚げできず引き返している。上海では日本人の難民が押し寄せると心配している。韓国では日本が避難地確保のために攻めてくると、大まじめに言う人がいる。
(人間は自分がすることを、人がすると思うものだ)

世界の過剰反応に、日本人は面食らっているだろう。
反核、反原発の人でも、世界のパニックには苦笑いしているのではなかろうか。

日本人の原子力や放射能に対する見方は、かなり専門家に近い感覚なので、大きなパニックにも成らない。
だが、反面、専門家というものは、えてして、現実感を見失いやすい。

端から見れば、どう考えても、ゆゆしき事態にもかかわらず
「ほー、面白い現象ですなあ」と、淡々と見過ごしかねない。