自称「じじい」は止めろ、と言ってくれる人がいた。
しかし、歳はまぎれのない「じじい」だ。
かなり多くの人が「じじい」「ばばあ」と呼ばれることを嫌がる。
中には、自分の孫にまで、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばせない人がいる。
この呼称を嫌がる人は、自分自身が、この言葉に差別意識を持っている。年寄りは半人前と考えている自分に、気づかない。
だから、こういう人に限って、若い時には、優しいつもりで、他人に「おじいちゃん」と呼びかける。「お年寄り」と呼ぶのも同じことだ。
こういう人は、人間の価値を、動物的な原始力でしか解らない。
年齢や、見た目で決めている。若いエネルギーを過信し、それが人間の全ての価値だと思いこんでいる。
そういう人は、自分がその年になると、慌てる。
人間の価値の多様性を理解しないから、見てくれが衰え、物理力が無くなると、懸命にそれを隠し、否定しようとする。
ポジションを奪われまいと権力を誇示したり、魅力を失うまいと化粧に取り憑かれる。可愛いと言えば可愛い人だ。
人間の価値は力や美貌ではない。
人間の価値は「生き様」だ。若かろうと、年寄りだろうと、どんなに恵まれない環境だろうと、自分を持った人はそれだけで価値がある。
自分を持つということは、頑固なことでも、物知りなことでもない。
どんな立派な経歴も関係ない。
「これでいいのか」と、自問し続ける姿勢の中に、自分がある。
そういう生き方は、態度、姿、言葉に自然に現れる。
外見から言えば、ごくフツーの人だ。他人にどう思われるかより、自分の生き方を大切にしているから、無難な格好をしている。
良くも悪くも、他人に特別な印象を持たれないように心がけ、柳に風で生きている。
立場や年齢や風貌で、どう思われようと、他人の思惑には逆らわない。
宮仕えであれば、役職を終えると、存在を消してしまうような、
一見、何の取り柄もない、市井の哲人。
そういう人に憬れてはいるが、とても、悟りが足りない。
せめて、己の置かれた環境を、積極的に受け入れようと思う。
万人平等の環境である年齢ぐらい、喜んで身にまとおう。
じじいの”やつし”は、実は、かなり楽しい。
わかる人には呼んでもらいたい、「こら、じじい」と