魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ありがたや

2007年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

天才的な人というのは、人格的には「ちょっと?」という人が多い。
「天は二物を与えず」だろうか。逆に、いわゆる人格者は、人並み外れた部分=「カド」を落としているか、初めから無い。

世の中は「天才と賢人」を混同している。天才に人類の生き方とかを聞いても、とんでもない答えが出るだけだ。
しかし、天才の言葉には原石のような示唆を含んでいる。あくまで、原石としてのだが。

天才は子供の能力がそのまま伸びた人で、子供のままの感性だ。大人(凡人)としての自制心や、客観性はあまりない。
賢人は逆に超大人だ。大人としての知識、人格を限界まで広げ、人間の至らなさを知り尽くしている人だ。
賢人は天才にはなれないが、天才は賢人になれる。天才が能力を失い、そこから人間としての学習を始めた場合だ。

そういう意味で、賢人と化した元天才に、ご意見をお伺いするのは正しい場合もあるが、目からウロコを落とすために聞くのなら、子供でも良いわけだ。曇りのない直感を聞けば、大人の認識でハタと気づく場合がある。
人類を導いてもらうために、ご意見をお伺いするような賢人は、具体的にどんな人なのだろう。

ノーベル賞受賞者は天才なのか賢人なのか、と考えると、そのどちらでもない。しかし、どちらの可能性もある。
認定されない天才はいくらでもいるだろうが、ノーベル賞認定に至る人間関係や手続きをこなせるという点では、賢人の可能性の方が高いだろう。しかし、実際にノーベル賞をもらった人が、後に、ミス提言をしているようなケースも多々ある。

平和賞などを見ても、ノーベル賞は学術認定賞であって人物認定証ではないのだが、開発途上国や、終戦直後の日本のようなリーダー喪失の社会には、ノーベル賞というお墨付きが、叡智の認定のように映り、みな、叡智のお言葉を欲しがった。

自信のある人間や集団は、他から与えられた価値を欲しがらないし、けなしもしない。ノーベル賞にしても、通信簿程度だ。
同じようなことが言えるのは、オリンピックやワールドカップなど、他人の創った価値やシステムにひたすら媚びることだ。
確かに、経済や国威発揚の効果を上げるには手っ取り早いが、フランチャイズビジネスみたいなものだ。
元来、全体の総意で始められたものでもないし、実際、権益や運営が偏っている。

なぜ、新しい理念で、世界の人々が賛同して集まってくるような催しを提案できないのだろう。
オリンピック誘致が話題になるたびに、恥ずかしいような情けないような思いになる。