魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

洞察力

2007年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム

「データに基づかない議論なんて意味がない」との若者の意見に、ニュース解説者も賛同していた。
 それは、確かにその通りだ。データと論理こそ科学的態度だ。人類はそれで飛躍的な発展を遂げた。化学的機械である人間の仕組みが解明される日も近いだろう。
だが、しかし、

科学万能と言われる時代
20世紀だけ振り返っても、乱開発、化石燃料依存、化学薬品、医療過誤、核兵器・・・
進歩や発展に浮かれて、人間は命の拠り所をメチャクチャにしてきた。
人間は酔っぱらい運転の大暴走をしている。
もしかして、この大暴走のスピリッツこそ、科学ではないか。

明治から昭和へと、学校教育が普及し、科学布教は世界的にも広がった。この時代、非科学や迷信は笑いものにされ、目の敵にされた。
そうして排斥されていったものの中には、人間性のエキスも少なくない。

新しい知識や技術を手に入れると、人間はそのたびに傲慢になる。
プロメテウスの火も、ダイダロスの翼も、
ギリシャ神話はそのことを紀元前から指摘していた。

今また、人間は、コンピューターという技術を手に入れ、新たな傲慢に陥ろうとしている。
無尽蔵に収集可能な情報、人間の能力を遙かに超える計算処理・・・凄い時代が来ていることは確かだ。
想像もできない可能性を秘めたツールを手に入れると、できることは何でもやってみたくなる。そして、しなくても良いことまでするのが人間だ。長靴を買って貰った子供は、水溜まりを歩こうとする。

若者は恐れや疑いを知らない。新しい可能性に感動し、新しい道具、新しいやり方を積極的に使おうとする。もう30年も昔だが、新車を買った友人は、初めての週末で3000キロ走ってしまった。

今の若者にこの種のカー吉は少ない。しかしネット上を走り回っていることは同じだ。

「データに基づいた」議論や思考。
正論に聞こえるこの概念。実にあぶない。むしろ疑いの対象だ。
データの根拠が怪しい、と言った話ではない。もっと根本的な問題だ。
レシピ通りにつくる料理より、料理人の経験と勘でつくる方がうまいと言う話だ。
データ偏重の思考からは、デジタルな答えしか出ない。四択を求められて、答えられないと思う人は、落第しても「正常」だ。
ものごとはアナログで、フラクタルな世界をトータルに見ることで
初めて全体像が見えてくる。20世紀に徹底的に否定された「経験と勘」をもう一度考える時が来ている。
情報氾濫の時代こそ、木を見ず森を見る姿勢、薄目で見る洞察力が必要になってくる。
いい加減であることには勇気がいる