魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

自分を疑う

2007年09月14日 | 占いばなし

今まで、確信というものをしたことがない。このブログも、言い方は断言的だが、単に短くするための文体だ。

自分が確信する時には、その根拠はすでにすり抜けている。ものごとは無常だ。だから確信できると思う時には、もう確信はできない。
ものの実体は時間と同じだ。

また、別の意味でも確信はあり得ない。自分の視点と他人の視点は同じはずがない。
だから、自分が確信と思う時はいつも「多分・・・だろう」とか、「・・・と言うことにしよう」という但し書きを含んでいる。

占いについて、たいていの人が、「絶対」の答えを求めたり、「何を根拠に、えらそうに」などと非難したりする。そのどちらの人も、そういう幻想や、先入観を持つのは仕方のないことだ。何しろ、占いのイメージは、絶対的な神のお告げを代弁する行為とされてきたからだ。

しかし、占いに長く関わってくると、まったく違うイメージが見えてくる。背後に神様はいるかも知れないが、占いは、神様に関係なく、時間の実体をさぐろうとすることで、おぼろげながら見えるその姿は、形のない霧の固まりのような生きものだ。
それを、龍と呼ぶ人がいれば、それもそうかも知れないと同意する。

いずれにしても、生身の人間が確信を持って、そいつの尻尾を捕まえることはできない。それができるようなことを言う人は、その時点でインチキと考えて良いだろう。
神さんが・・・、霊が・・・、前世は・・・とか言う人だ。

おぼろげな「実体」と付き合っていると、ますます自分もおぼろげになっていく。徹底的に自分を認識定義することより、おぼろげであることで存在しているのだと思えるようになる。

運命の姿は、確信して捉えようとすると捉えられないが、だいたいこのあたりにいるなと、横目で見ていると、見逃すことはない。