魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

身体感覚

2007年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

これまで何度も「人を殺してみたい症候群」の話を出した。
近頃の犯罪には、理由無き殺人とも言うべき事件が多い。
今日も、京都の親族殺人の男が「殺人して自己の人生を完成させた、自分をほめて上げたい」と言ったと報道されていた。これがまさに症候群だ。
近年、大なり小なりこの動機での殺人が目立つ。何のマンガだったか、殺人狂態の画も見たことがある。この感覚は「口裂け女」の雰囲気だ。

幼児は昆虫をちぎったりする無益な殺生で死を理解していく。あるいは、至るところにある危険によって、小さな障害を受け、痛みや苦しみを理解していく。
しかし、核家族だけの生活の中で、殺生も止められ、病気も減り、子供同士の傷つけ合いも無くなった。エアコンで寒暖を知ることもない。
死や痛みを理解しないまま大人になると、言葉では十分理解していても、その分、「本当のこと」に対する好奇心は強くなる。
これは、「口裂け女」を見てみたい幼児のままの大人が万延しているということだ。
「口裂け女」は、成長段階の、生への渇望と死の恐怖のアンバランスを刺激するイメージだ。そう言う意味で、怖い話を求めるのは幼児性の一面がある。
死を抱えた肉体を持つ人間は、生とともにある痛みや苦しみの身体感覚を完成させ、それを制御することで大人になる。つまり、身体感覚の希薄な、大きい人が増えたということだ。

根性論や経験論は嫌いだ。知的理解ということを第一としたい。だが、それは大人の話だ、幼児期や成長期には様々な経験によって人間として必要な身体感覚を身につけることは重要だと思う。


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