魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

言語滅裂

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

「学徒鏡」持ってきて下さいと言われて、一瞬、どんな鏡のことだろうと悩んだ。
学徒出陣の時に学生が携帯したお守りのようなものだろうか。昔の学生が密かに身だしなみを気にしていた名残だろうか・・・???
聞き直すと、「額と鏡」だった。
関西に半世紀いるが、未だに関西弁には慣れない。今回の朝ドラ『ブギウギ』が好評な中、趣里の大阪弁は玉に瑕だと言われているらしい。関西弁は関東人が考えるほど甘くない。単語だけ並べて似たような発音をしてみても、会話全体のリズムには付いて行けない。

中国地方と東海・関東は、環状言語圏の影響か、比較的扁平な話し方をするので、互換性があり、中国方言は東京弁に間単に馴染むが、中国方言と関西弁となると、文字に書けば似たような単語が並ぶものの、フランス語と米語ぐらいの隔たりがある。
東京弁は江戸弁とは異なるが、関東弁としての「息」は同じで、抑揚を抑えた扁平な言葉ながら、連結した合成語には抑揚が付く。
言語学者ではないから抑揚がつく条件は解らないが、東京弁で、「耳」、「飾り」を別々に指す時はどちらも扁平に発音する。しかし、「耳飾り」になるとリズムが付く。ところが関西弁だと、何れの単語にも始めから抑揚が付いており、合体しても当たり前のようにリズムが付く。
「額と鏡」も関東弁では扁平なので、「と」が独立してよく分かる。ところが、関西弁の「鏡」は、合成語の「学徒鏡」と発音する時と同じアクセントで「カガミ」と発音するから、関東や中国の耳には、早口で「ガクトカガミ」と言われると、「学徒鏡」にしか聞こえない。

こういうことは良く解っているつもりなのだが、未だに、気を抜くと混乱する。
半世紀いても、基本的に関西弁は話せない。すぐにムリだと覚った。話したくても、話せないから話さない。特に、大阪弁での多人数のタメ口は不可能だ。ジャズのセッションのように、リズムとスピードに乗った会話に完全に取り残される。
10代で話し始めれば何とか関西人風にはなれそうだが、20代後半からではムリだ。

ただ、何弁であれ、何語であれ、らしくしゃべるコツはある。その言葉独特のクセ、殊に音楽的側面をスムーズに使えると、らしく聞こえるが、正確な議論にはむしろ邪魔になる。ドナルド・キーンやデーブ・スペクターのように日本語の論理に関心のある人より、山形弁や大阪弁を話す人やアニメファンのノリの方が日本語が上手そうに聞こえる。
日本語の場合、考えながら、正しい論理で話そうとすれば東京弁の方が有効だが、人の心を掴み説得しようとするには、音楽性のある関西弁の方が有効だ。
関西の論客と言われる人は、話の内容より、その人の存在の方が印象に残り、妙に納得してしまう。

奥の深い関西弁には付いて行けないが、それでも長くいると感化されて、相当に関西弁混じりになり、何弁を話しているのか自分でも解らなくなった。でも、これはこれで良いのではないかと思う。

もともと動物に論理言語はなく、人間も言葉がなくても意志は通じるように出来ている。言葉がなくても好悪はすぐ通じるし、むしろその方が本音が分かる。何とか意思を伝達しようとすれば、自然に通じる。
言葉に囚われるから誤解が生まれる。多くの戦争が、案外、誤訳から始まっているという話もある。「正しい言葉」があると思うから言葉を信じて欺されたり怒ったりする。
言葉のルールを正したり言葉の心理を読むことと、真意を知ることとは別の問題だ。案外、デタラメな言葉の方が有効なコミュニケーション手段かも知れない。