魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

他人の車

2023年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本も「ライドシェアー」と盛り上がっている。賛成だが、欧米の人権問題を日本で語るような違和感がある。文化背景が異なる中で、同じ事を同じように行うのはムリだ。
「物」を違う文化に持ち込めば、人はその文化なりに利用する。しかし、文化を持ち込んでも、根付かない。
昔、新しいファミレスの入り口で、スタッフが「ようこそ、○○へ!」と英語直訳風の挨拶で叫んでいて強烈な違和感があったが、この店はすぐ無くなった。文化は水や空気だ。人は異臭を避ける。もっとも近頃は、注文に「喜んで!」とこれまた直訳風に答えるが、違和感は無いらしい。時間を掛ければ文化は慣れる。
車は物だが、「ライドシェアー」は文化だ。

ライドシェアーを直入しても、欧米のようには広がらない。ウーバーイーツが広がったのは、日本にも昔から「出前」文化があったからで、玄関口で受け取っても、中まで配達員を入れるわけではないからだ。
日本人の見知らぬ人に対する警戒心と気遣いは極端から極端で、パーソナルスペース以前に、中に入れない「結界」をつくる。しかし逆に、いったんドアを開けると、言葉巧みな訪問販売員を上げて、お茶を入れる奥さんまでいた。

日本の「おもてなし」文化は、持って成す「もてなし」であって、形から入る。腹を割った人格の「つきあい」ではない。
日本人は家の中の「身内」には何でも許すが、門の外は敵だらけ、人を見れば泥棒と思う。
島国日本は、結界を張った村々の中で「身内」同士で暮らしてきたから、敵の中で個人を保つ意識を知らない。仕切られた枠の空間でのみ自分がある。戦時中、捕虜になった日本兵が、秘密情報を何でも話すので、アメリカ軍は驚いた。逆に、日本軍は捕虜を冷遇した。日本人には人格や人権の意味が解らなかった。
もてなしの象徴のような茶室は、枠と型の空間に入ることで安心感を得る。個人を捨てることで、集団瞑想のような感覚を共有できることに価値がある。

車内は茶室
茶室の発想は「結界」だ。もともと、弥生に渡来してきた人々は環濠集落や高地集落で暮らす大陸型だった。城郭都市や客家圍楼に見られるように、世界常識では物理的な防護壁で住空間は守られていた。しかし、海によって守られた島国に暮らす内に、日本の小集団の防御壁は鳥居やしめ縄の「結界」のように形骸化していったようだ。
紙や木で造られた立前の防御壁の中で、みなが武器を捨てる「結界」の儀式が生まれたのは、戦国時代と言えども、夷狄の心配の無い日本列島という安心世界にあったからだろう。「下剋上」が異様に聞こえるほど、日本は全体的には約束が守られる安心世界だった。大陸は下剋上など超越した暴力世界だ。
今日、日本の茶道が世界に受け入れられるようになったのは、世界の人が、地球が日本列島のように大きな枠で守られた世界であることを認識したからだろう。

タクシーには公的責任の所在があるから、知らない運転手でも乗るが、よその「知らない人」の運転に乗ってはいけないのは小学生の時から、日本の常識だ。
他人の運転する車に乗るということは、日本人にとっては個人の「結界」を破ることになる。つまり、全てを許す行為と言っても過言ではない。

心にある防御壁
昔、ヨーロッパをヒッチハイクした。その足で、カナダに行くとトロントの街中で普通の人がヒッチハイクをしている。赤ちゃんを抱っこした若いお母さんが、道脇で右手を伸ばして親指を立てて立っているのには驚いた。
乗る方も乗せる方も自分の判断で乗り乗せる。ゲルマン系とラテン系の違いはあるが、欧米文化の自我と、近頃日本で言われる自己責任とは、真逆に近い概念だ。
奴隷の中から生まれた一神教は、どんな状況にあっても自我を捨てない。しかし、環境依存型の東洋人は、奴隷になれば人格は失われ、集団に背けば捨てられる。それがいわゆる自己責任の意味だ。

警戒心の強い日本で、ヒッチハイクは難しいだろうと思っていたら、来日したヒッチハイカーには天国だというから、考えてみた。
日本人の警戒心とは結局、「結界」の内外であり、「結界の外」では警戒するが、車という「結界の内」にいる時には、「自分」を保てる。道端で自分の「結界」を捨てて「捨て身」で立っている外国人なら、優位な立場で安心して招き入れ、「おもてなし」できると思うのだろう。
日本人の感覚からすれば、日本にいる外国人は守られていない人、極端に言えば野良猫のような存在だ。自分の方が優位な立場で、野良猫に餌をやるように可愛がることが出来ると感じるのだろう。

少なくとも以前は、日本人が道でヒッチハイクをしていたら異常に映ったし、「乗っていかないか?」と声を掛けられて乗るのは、良くてナンパ、悪ければ犯罪目的だと思われるだろう。だから、乗せてあげたい情況でも、よほどでなければ声を掛けられなかった。
しかし、情報時代の最近は、欧米での情況をそのまま取り入れるようになり、高速の入り口などでヒッチハイクをしている日本の若者も見かけるようになった。
また、ネットによる出会いやファンディングから、犯罪まで、見知らぬ人同士が間単に共同行動を取れるようになり、あたかも日本人も世界の人と同じ認識を持つているかのように見える時代になった。
LGBTや環境、人権問題と、今や日本も世界と同じ感覚で同じ行動を取っているかのように見える。良いことだが危険な大間違いを起こしやすい。

ネットは新世界だが、手近さ故に、日本人はネット世界を「結界の内」と錯覚する。これは、「結界」意識のない人々より、安心して何でも許しやすくなる。くどいが、警戒心の強い日本人だからこそ、殻から出たヤドカリ状態の危険が待っている。
欧米の動きは、サザエや牡蠣のようにかけがえのない自前の殻、心の防護壁を持って生きている人たちの行動だ。一枚しかない防御壁を大事にしている。
日本人は何でも流行にしてしまうという批判があるが、みんなで渡れば怖くない。つまり、自分の判断ではなくノリで行動する、環境依存型だ。

これほど環境依存している日本で、公的保証のない「知らない人」が運転する車に乗るだろうか。また実際、安全だろうか。乗せる側にも「自分の結界に入れる」という悪意の優位意識を持つ者もいるだろう。
ネットのノリで行動する人々には受け入れられるだろうが、実際、その人達が、みな善意と安全を得ているだろうか。

ライドシェアーは賛成だ。しかし、日本で実施するには、日本の文化に合わせて行う必要がある。参加者を明示的な登録制にするとか、提供者も利用者も互いに情報が知れる会員制にするとか、事故補償の嘱託金を定めるとか、とにかく、いかに「安心」に利用できるかが先で、便利さは二の次だ。