【未来は一人っ子社会】
長子は一人っ子
長子は元々は一人っ子で、次子との年齢差にもよるが、ほとんど一人っ子と同じ特性を持っている。弟妹がいれば、あしらい方を身につけるが、年が離れるほど一人っ子同様になる。
また、長子の親が弟妹の場合は、子供を自分の弟妹・部下扱いするので、弟妹型の要素が加わるが、成長後の長子は親と距離を置くようになる。
< 総領の甚六 >
昔、商店街が元気だった頃。ある商店街のランドマーク的なお店があった。仮にその店を一休さんの「桔梗屋」としよう。その店の5歳の一人娘が、みんなの前で名前を聞かれて
「桔梗屋弥生です」と答えて、一同大笑いになり、町内に語り継がれた。
もちろん、桔梗屋は屋号で、本名は別にある。
皆が笑ったのは、いつも呼ばれる屋号を姓だと思い込んでいる、子供らしい無邪気を可愛らしく思ったからだろう。
しかし、これが弟妹だったらこうはならなかった。自分の姓を知らなければ名前だけ言う。「上の名は?」と追求されれば、キョトンとして助け船を待つ。第一その前に、兄姉が姓を知る頃には自分も横で素早く憶えて、「斉藤弥生」ですと答え、なんと賢いと感心されるだろう。
弟妹は生まれたときから先達がいるから、考えることより、習い「憶える」ことが得意だ。ところが、見習う対象のない長子は、全て自分で「考える」。
『どうも名前には別に、一家の名前があるようだ』と気づいたら、自分で考え、これだろうと、勝手に決め込む。もちろん、手がかりがなければ、進んで尋ねもするが、どう見ても一家の名前はみなが呼ぶ桔梗屋だ。だから、誰に聞かなくても自分の姓?を知っていた。
長子が自分で考え、判断する例は、麻生太郎の「みぞうゆう」がある。ルールや世間の決まり事より、先ず自分で考える。
教育熱心な親が色々教えようとしても、あまり真剣に聞かない。物心ついた瞬間から自分で考えるから、教える人に対して素直ではなく、反応が悪い。実際、自分で納得しないことを無批判に受け入れる習慣がないから、「憶えが悪い」。
長子の親は子供の自主性を尊重するが、弟妹は人に聞いて憶えることに長けているから、それが向上の最良策と考え、自分も人に教えたがる。弟妹が親になり、我が子の長子に熱心に教育しようとすると、双方にとって色々と辛いことになる。
多産時代の長男相続
昔は兄弟10人ぐらいは普通だったから、多数派は弟妹で、世の価値観は弟妹型だった。反応が悪く、世間とずれている長子の思考や態度は、「総領の甚六」と揶揄された。
しかし、早くから親の手助けが出来ることや、長子の独創性や未知への対応力が経験知として認識されていたことで、長男相続が重視された。だが、これは長子が重要なのであって、長子が女なら長女でなければ意味がないのだが、男系の氏族文化では男にこだわったため、実は姉がいる弟妹の長男が後を継ぐことが多く、「賢しい長男」は弟のことが多かった。
人類の歴史は弟妹型の歴史だ。「習い覚え」、「素早い反応」、「競り勝ち」は、全て弟妹型の原理であり、「学校教育」、「情報や技術の輸入」、「敵を求める戦争」も全て弟妹型に起因する。当然日本も、維新や明治政府を率いたのは弟達だった。さらに言えば、日本神話は弟妹がヒーローで、大国主命も神武天皇も、ヤマトタケルも弟だ。
弟妹は競争相手によって自分を確認しようとするから、妥協より争いを好む。
長子は相手の存在が念頭にないから、挑戦を挑まれると譲り、難儀を避け別の道を探そうとする。弟妹に強く言われると「お前に任せる」と言う長子は少なくない。また、長子が親を助け、弟妹のために犠牲になることも多い。弟妹はそれを当たり前の光景とみているので、感謝する場合もあるが、中には親と同じように反発して嫌い、長子に反抗する場合もある。いわゆる「悪口」は、弟妹の長子への視点の場合が多く、長子には「告げ口」の相手がいなかった。
弟妹中心の古典的社会は、競争やチャレンジが好まれ、国家競争や戦争を含め、発展的な活気に溢れている。近頃はあまり聞かない言葉だが「発展家」は、ほとんど弟妹だ。