魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

空母甲板

2016年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、日本人は時間を正確に守るとの評判があり、日本人もそれを自負している。
そして、ルーズな沖縄時間が、珍しいことのように笑い話になっている。
しかし、幕末に来日した欧米人は、日本人が時間に拘らずに仕事をすることを、半ば呆れたように証言している。

時間を守るのは、正確な時間が計れるようになってからであり、産業革命パラダイムの技術革新の象徴だ。
世界のどこにいても、同じ時間を、経度緯度に基づいて計れるようになったのも、人類史上では、ごく最近のことだ。

時間に拘るのは、正確な時間に基づいて動く社会システムを守ろうとするからであり、同時に、その社会に依存しているからだ。
年月日時に分割するのは、人間の定めたことだから、時間で動く社会は仮想現実であり、この仮想現実をより正確にすれば、生存空間にリアリティが増す。そして、それを忠実に守るのが、先進国の文明人というわけだ。

先進国の日本人が時間を正確に守るのは、最も仮想現実世界にハマッている国民だからだが、これは、ひとつ崩れると、最もアブナイ、ガラスの世界なのだ。
雪が降っても風が吹いても大騒ぎになる、精密社会の危うさの中で、原発に依存して来た。そして、その結果がフクシマだ。

東日本大震災のあまりにも大きな破壊に、かえって、事態の重大さが理解できない人々は、再び原発に頼ろうとしている。それが、ガラスの世界の守護神、官僚や財界を始めとする「優秀な日本人」だ。
彼らが、ここにいたっても、原発から離れられないのは、時間厳守や緻密な合理性にとらわれる中毒に罹っているからだ。

学校教育で洗脳された先進国の日本人が、体内時計などの体感によるバランス感覚や道理を拒否し、時間や利害の合理性のみに忠実に生きることは、産業革命パラダイムに完全洗脳された、中毒患者だからだ。
「日本人」の多くは、時間を無視することができず、合理性を否定することができない。

突発事態
フクシマの時、まともな対応ができなかったのは、民主党だったからのような定説が出来上がっているが、何党であろうと大差ない結果だっただろう。
時間通り予定通り動くように訓練された日本人は、突発的なこと、想定外のことに自分の「フォース」で動くことができない。
日頃は、予定通りに動けていても、国の命運を左右するような重大事態の時、必ず失敗する。

最も、突発事態の積み重ねで結果が出るのは、戦争だ。
幕末生まれの明治の軍人は、経験と勘の「フォース」で動いていたから、信じられないような勝利を収めることができたが、温室育ちのイチゴのように、産革パラダイムの学校教育で育った昭和の軍人には「フォース」は無かった。

アメリカが太平洋戦争の最大の分岐点とする「ミッドウェー海戦」は、その象徴だ。
いま、日本が、原発を捨てることができないのは、あの時の空母の甲板上と同じだ。
「フォース」が無いから、相反する事態に決断を下せない。一刻を争っているのだ。
再び急降下爆撃に遭ったら、ひとたまりもないだろう。