魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

残酷とは

2015年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日のクローズアップ現代は、WAZAの技にやられた日本が、イルカショーや動物園維持に困っている話題だった。
世界では、すでに、動物園そのもののあり方が問題になる傾向もある。

動物園そのものが残酷だという考え方は、昔からあるが、いよいよ、そういう時代になってきたようだ。
「猿の惑星」では、人間が観察される対象であり、立場を替えてみることによる、分明文化への皮肉に満ちていた。

動物に対する考え方は、生活文化によっても違うし、時代によって変わってきている。
ほんの短い間でも、ハンティングをスポーツとして見ていた考え方は大きく変わった。
魚釣りも、リリースが文明的なやり方のような思い込みがある。

魚釣でリリースしたり、ゴルフが自然保護だと思うのも、クジラ、イルカの保護精神と全く同じ、偽善だ。
魚釣りもゴルフも楽しいスポーツだが、少なくとも偽善的な免罪符で美化すべきではないだろう。

クジラだろうが、牛だろうが、殺して食べることは同じで、その事実を直視し、感謝して食べるべきなのだ。
釣ってもリリースするから罪がないと言う人は、クジラを殺すなという人と同じぐらい、狂信的で、まともに話すことさえできない人が多い。
その御陰で、琵琶湖の原生種が途絶えることには無頓着だ。

魚釣りは、本来、人間が生きるためにしていたことであり、それを遊びにすることの後ろめたさが、リリースという良いことをしているのだ、に転換される過程で、狂信になる。
クジラ捕りをしていた人々が、その必要がなくなったとたん、過去を打ち消すために、狂信的になる。同じことだ。

人間は元々罪深い生き物なのだから、それを認めさえすれば良いではないか。
殺す時も殺さない時もある。ただそれだけだ。
偽善が、罪を生むことにこそ気づくべきだ。

動物園に動物を閉じ込めて、見学するのは、産業革命で物質的に豊になった人間が、何でもできるような錯覚に陥った、博物学の時代の産物だ。
物と同じように、「生き物」を並べ、それを見て、解ったような気になった。
デパートに並んだ製品を買って、豊になったような気になった。
そういう産業革命パラダイムの現象であり、それがそろそろ、大転換の時代にさしかかっている。

もう動物園など要らない時代になった。バーチャルと、現実の自然を両立させることで、豊かな地球を守らなければならない。
今や、バーチャル動物園や、リアルタイム自然映像館などが可能な時代だ。
一刻も早く動物園を止めて、WAZAに、「残酷な動物園は止めるべきだ」と、逆襲の技を見せてやりたいものだ。

ただ、イルカだけ限定して考えると、東南アジアでは、イルカと漁師が一緒に漁もするぐらい友好的な動物なのだから、回遊しているイルカを馴らして、遊びに来てくれるようにはできないものだろうか。