魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

腕組問題

2015年06月20日 | 京都&ケンミン文化

中国メディアによる、日本人のジェスチャー解説で、
「腕を組む」のは、世界では怒りを表すのに対し、日本人は熟考する時にこうする、と解説していた。

ジェスチャーは地域や時代文化で、全く違う。自分が慣れたジェスチャーが通じると思うのは危険であり、逆に、外国人のジェスチャーや態度で判断するのも、大変に危険だ。
日本人同士でも、世代が違えば通じない。両人差し指を立てて片方を握る「ドロン」は、意味の通じない世代もあるが、様子を見れば、逆にそのジェスチャーの意味が解る。
大切なことは、互いが相手を解ろうとし寛容であることだが、その寛容レベルが解らないから難しい。ジェスチャーより大切なのは、日本人の好きな、「誠意」だろう。

外国人が不思議がるように、日本人の「腕組み」は、怒りを表す意味ではない。
そもそも、日本の風習の中で、相手に「怒り」を表すこと自体が少ない。怒った時には、いきなりの暴言や暴行になる。外国人にはむしろこの、日本人の「堪忍袋の緒が切れる」行動原理を解って貰う必要がある。
限界までがマンしている日本人の心情が解らないから、日本人は突然、戦争を始める、残虐な民族だ。と思われてしまう。

また、日本人も、自分の感情を相手に知って貰わなければならないことを学ぶべきだ。
いきなりの暴言や暴行ではなく、英国紳士のように、ウイットに富んだ皮肉や冗談で、逐一、相手にイエローカードを提示すべきで、それは、相手に考え直すゆとりを与える優しさでもある。

京都人の「底意地の悪さ」と思われがちな皮肉は、英国紳士に通じるところがあり、奥を察知できない知的レベルの低い人には、嫌みや、意地悪に映る。
似たような確執が起こる例では、姑の嫁いびりがあった。年寄りの間接的な言い回しは、若く知恵の浅い嫁には、意地悪としか思えない。

昔、京都の下町のお嫁さんが、お姑さんに「すみません」と、謝ったら、「へえ、毎度のことで」と言われたと泣いていた。これを皮肉と解るのも京都人だが、泣くのはお嫁さんの自覚の無さでもある。口先で謝るより、次から間違いの無いように努力する方が先のはずだ。
嫌みを言われて怒るより、教訓とすべきで、それが解らないと、本当の衝突になる。

皮肉で怒りを表す英国紳士とは違い、世界の標準レベルは、腕を組んで「怒ってるぞ」と、相手に意思表示する。
この「腕組み」は、基本的には防御態勢であり、攻撃を意味しない。
怒っているのに、攻撃ではなく防御態勢を取る・・・とは、何を意味しているのだろう。

いきなり、怒りの行動を起こす日本人とは違い、世界標準は、攻撃の意図を持って、守りを見せる。つまり、「こちらは、もう無防備ではない。必要に応じて何時でも攻撃するぞ」と言っているわけだ。
案外、日本人にとっては不思議に思えることではないかと思うのが、アメリカが、PAC3やTHAADを設置することに中露などが怒ることだ。
「守りの兵器なのに、なぜ怒るのか?」

軍事専門家をのぞく日本人なら、日頃は攻撃する気は無いが、いざとなれば、決死隊の切り込みだけが攻撃だと思うだろう。真珠湾も万歳突撃も、特攻隊も、攻撃のみで、後のことは考えていない。いきなり最終手段しか考えない。
だから、最後の最後まで我慢して、最後にいきなり行動を起こす。キレたら終わりだ。

日本人にとっては、抗議は攻撃と同じで、攻撃前の腕組み「警告」は無い。
世界の人と違い、日本人が、考える時に腕組みをするのは、他人に対して防御や攻撃をするのではなく、自分の思考に対して、構えているということで、それだけ、日本人は観念的であることを表している。

例えば、「ご飯食べませんか」と聞かれた日本人が、「はい」と答えれば、食べないが、外国人が「Yes」と答えれば食べることを意味する。
これは、日本人が、言葉の論理の整合性に答えるのに対し、外国人は、現実に起こることに直接、回答するからだが、それだけ日本人は、論理や思考に、「腕組み」して対峙している。
それはそれで素晴らしいことだが、世界の人がいかに現実思考をしているかは、知っておかなければならないことだろう。