録っておいた、「浮草」をチェックしようとしたら、終いまで観てしまった。
小津の良さは、小津だけによるものではないと、改めて思った。
それはもちろん、小津だからこその表現だが、一人一人の役者が良いし、それをそうさせる、時代があった。
昭和34年と言えば、江戸の香りが残る、おそらく最後の最後の時代だ。
社会の常識や、価値観が、どっしりと人間の隅々にまで浸透していた。
今の価値観から見れば、受け入れられないかもしれないし、その前に何より、些細な行為や言葉にケチを付けて、とても終いまで語らせてくれない。というか、話が始まらない。
「話にならん」時代のドラマや映画は、チマチマと奇をてらい、脈絡のない事件が突発したり、語りすぎて何も語らない。いちいち、「泣いてやるぞ」と言わなければ、泣いたことにならないような表現方法や、「面白いドラマ」ですというドラマだったりする。
つまり、観る方が、待って、想像して、考えて、感じる能力が無いから、創る方も手っ取り早く受けること、飽きさせないことを考える。
確か水谷八重子(二代目)だったと思うが、近頃の映画はジェットコースターのようだと言っていた。全く同感だ。
技術は発達したが、その分、人間が薄っぺらになった。人の言うことを、とにかく最後まで聞いて考える、覚悟がない。
幕末に、既に工業化していた欧米から来た人々は、日本人は怠け者だと決めつけた。
それは、機械化に合わせて動く、「合理的」な生き方をしないからだった。
大工仕事一つとっても、棟梁は何もしないで、何日でも現場を見ている。そういうことが怠け者に見えた。
今の日本に、時間を捨てて、自分のやりたいこと、信じることを貫ける人が、どれほどいるだろう。もはや完全に、江戸の職人の世界は失われたようだ。職人の世界が失われたのは、職人がいなくなったのではない。江戸の世界が無くなったのだ。
欧米は言うまでもなく、日本にも、人間が技術に合わせる世界が行き渡り、人が先ず考える、精神の支配が失われている。
江戸時代が良かったわけではない。今と比べれば、確実に不便と抑圧の中にあった。
しかし、不便であった分だけ、精神が物を支配していたし、人は知恵で生きていた。
小津の時代の映画に打たれるのは、全ての道具立てが、人間中心で設定されていたからだと、今日もまた、改めて思い知らされ、いささか、もの悲しい思いに駆られた。