魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

かくして

2015年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

人の話の、話し方や言葉遣いをとやかく言う人には、話しても無駄と心得た方がいい。
話の内容を考えるのではなく、頭から否定しょうとしている。
話している人を嫌いとか、話の内容に太刀打ちできないとか、理由は色々あるが、話の内容ではなく、話し手の存在を貶めることで、論議そのものを抹殺しようとしている。

話し方に異議を唱える人が、全くそのことに無自覚な場合もある。
「○○さんに向かってその言い方はなんだ!」と怒っている人は、純粋に無礼に怒っているのだが、意見の内容より、礼にこだわることは、秩序破壊を拒否しているのだ。

意見とは常に、常識秩序を破壊するために必要なのであって、どんな言い方であろうと、先ず内容の是非から聴く環境が無ければ、良い意見は出てこない。
むろん見識者であれば、言い方も適っているだろうが、常識を破る意見は、得てして、場にそぐわない人から出てくる。

常識を破れない社会
テレビなどで、誤字などを必死になって謝っているのは、鵜の目鷹の目で待ち構え、発見すると電話などで、大罪人に石を投げるように攻撃してくる人がいるからだ。
これは、ある種の病だが、そういう人は、報道内容の是非には案外、無頓着だ。

些細なことを取り上げて、攻撃をする人の多くが、身なり風体しか見ない。
政治家攻撃に、言葉遣いや挙動を取り上げて攻撃するマスコミも、それを喜ぶ大衆がいるからで、森や、麻生の言い間違いを、人格や能力の問題にすり替えて嫌悪感をあおり立て、退陣にまで追い込んだ。
古来、「巧言令色鮮し仁」と言うように、流暢で美しい言葉と、政治能力は関係ないが、日本の大衆は、表面しか見ないところがある。

これは、日本人だけを責められない。ギリシャだけではない、オバマもプーチンも、反日の中韓も、今や、世界政治はポピュリズムが支配している。
民主主義は愚民政治になるという、独裁の正当化を証明するような状況が、重大な危機を育て、独裁者を育てている。

民主主義の発達していない昔の社会は、「男の甲斐性」のようなデタラメが、まかり通っていた。今のように、清廉潔白だけが政治家の価値のように思われている社会では考えられない政治家ばかりだった。
状況も違うから、どちらが良いか解らないが、帳簿の数字や手続きのミスを、日がな国会で取り上げているような政治を見ると、何かが間違っているような気がする。

ポピュリズムは、破綻か、独裁への道に進む。
今、世界がポピュリズムに流れているのは、大衆を律する、既存のモラルが失われ、不満をセーブする自制心が取り去られたからだ。これが大転換期のステップだ。

モラルが失われるのは、皮肉なことに、大衆がモラルを求めるからだ。
環境の変化による常識の破壊が、それを拒否しようと保守への逃避を招き、新しい意見、打開策の意見をモラルの破壊として拒否する。
一元的で理に適った美しい言動を好み、異見を排除し、秩序を求める。

長く続いたモラルには知恵も含まれている。人間が細かいことまで律することができないことを知っている。
その既存のモラルが、環境変化で失われるのを拒否しようと求めるモラルは、観念的であり原理主義的になる。

イスラム原理主義も、まさにこれだが、世界中で、打開策に耳を傾けない変化の拒否、現実からの逃避が起こっている。
次に何が来るかは、1930年代に一つの答えがある。