魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

天下国家

2012年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

占いで、天下国家を語るのはおかしいと思う人がいるかも知れない。占い師ごときが何を言うかと。

しかし、占い師が天下国家を論ずるのは当たり前であって、むしろ、嫌でも、それを考えなければならない。
占いは元々、支配者と国、天下国家の未来を予測するために生まれたものであり、受験や金儲けなど、個人の運命は、ついでに過ぎない。

易経はすべて天下国家について書いてあるから、個人の運を見る時は逆に、国家運営になぞらえて考える。

さらに、天下国家を考える占いの目は、国の立場をも超越した目でなければならない。国家は天の下にあるから天下と言う。国家が滅びても天は滅びない。国破れて山河あり、山河の上には天がある。

現代においても、と言うより、現代であればこそ、ますます、国家より天下、宇宙から考えなければならなくなっている。
グローバル時代は、国よりも個人が、天と向かい合う時代だ。
天を神と考えれば、神のもとでの平等のように、人間は国家を越えて、先ず天のもと、宇宙の中で平等であり、人が集団を越えて知性でつながり合う世界を目指さなければならない。そういう時が来ている。

一言で「国家の興亡」と言うが、国家の意味は、時とともに大きく変わってきた。近代の国民国家でも、それぞれ国ぶりも違えば、時代によって、形も中身も大きく変わってきている。
当たり前のことではあるが、国家は個人のための道具であり、国家のために個人があるのでは無い。

近年の日本人は、このことに大きく目覚めた。しかし、周囲で夢遊病者が国家を叫んで暴れ回るうちに、日本人は、こっちが夢の世界にいるのかも知れないと悩み始めた。夢とうつつが逆転しかけている。

こうした混乱の中にあればなおさら、占いは、一歩離れた立場から全体の行く末を見極めなければならない。現場を離れた視点から、何が本質なのかを観ることは、まさに、大局観の持ち方でもあり、占いの存在理由でもある。

観大局観