同志社大学は携帯カンニングについて、告訴しないことにした。
ミッションスクールとして、賞賛に値する。
多くの迷宮入り行きずり殺人を抱えながら、ネット犯罪のように、「目の前で泳いでいる魚」なら、他府県に出向いてまで華々しく捕らえる警察は、またも華麗な手柄を上げた。
むかし、「カンニング」という喜劇フランス映画があった。
よく憶えていないが、面白かった。恐らく誰でも笑って観ただろう。
フランス映画には、この種の反モラル喜劇が多い。
「ボタン戦争」では、子供達がたばこを吸っている。
映画「カンニング」の面白さは、権威をバカにする小気味よさだ。
誰でも、やってはいけないことと知りながら、でも、内心「何でこんな事をやらされるんだ」と、試験に不満を感じている。
それを、「もしも」と、やってみせる面白さだ。
他の受験生が腹を立てるのも、『自分はルールを守っているのに』という、自分自身の苦痛の裏返しとしての、不公平感だ。根底には、やはり、試験に対する嫌悪感がある。
カンニングで、未成年を逮捕までする必要があるだろうか。
社会秩序を維持する上で、反則が良いわけは無い。受験生はみな、人生を賭けて臨んでいる。それを抜け駆けしようとする行為は、決して許されるものではない。
しかし、マスコミの血祭りにした上に、不合格になった、青年の過ちを、逮捕までして、決定的な犯罪者に仕立てる必要があるだろうか。
いくらなんでも起訴するほど反教育的ではないだろうが、立ち直りには相当な配慮が必要になるだろう。
そもそも
何度も言うことだが、日本の受験制度そのものに、重大な問題がある。
入り口で全てが決まってしまう社会。やり直しが利かない社会。
こういう硬直した社会が、危機に対処できない指導層を生んできた。
本を正せば、中国の科挙に習った制度であり、中国の歴史を見ても、社会が安定している時は、硬直でも機能するが、異変を迎えると、対応できなくなり、結局は、制度の外の人間が、硬直したシステムを打ち壊して、新しい王朝を立てる。それを繰り返してきた。
一発勝負のペーパーテストで選ばれる人間は、もちろん優秀な人もいるが、基本は、ペーパーレベルだ。
人間の判定は、紙ではなく、人そのものを見ることから始まる。
ペーパーより面接、入試より卒業によって、確かな人材が育つのではなかろうか。
それにしても、近頃の若者の、携帯操作には感動する。
海外ではゲーム競技が盛んだそうだが、彼には受験より、もっと別の人生があるのではなかろうか。