魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

立場

2009年11月14日 | 新鎖国論

人には生い立ちによって違う物の見方がある。
貧乏・金持ち、上流・下流といった、階層のことではない。
大人になる過程で身につける価値観や論理だ。

農家で育てば、自然を崇拝するようになるが、恵みを漏らさず受け取ろうとするようになる。
職人の家で育てば、ウソも駆け引きもできないが、個人主義で勝手になる。
医者やお寺で育てば、真面目で素直だが、プライドが高くなる。
商家で育てば、持ちつ持たれつの人づきあいを大切にするが、利にめざとくなる。
サラリーマン家庭で育てば、努力と向上心は育つが、階級意識が強くなる。

そして、それぞれの家庭で育った者同士は、なかなか理解できない。
例えば、少し昔なら、
商売人の家にサラリーマン家庭から嫁に来たとすれば、生活リズムや収入の不規則さに驚く場合が多い。また、日常生活と商売の現場が一体になっていることが理解できず、耐えられない。お父さんやお母さんが実権を握っていて、夫が使われている場合も多い。

逆に、商家からサラリーマン家庭に嫁に行くと、家庭内秩序の融通が利かず、世間づきあいも夫の立場を配慮しなければならず、夫の給料が上がらなかったり下がったりした場合も、それを運命とあきらめて暮らすことにいらだつ。

現在では、男女がかなり対等になってきて、家という具体的な環境と衝突することが少なくなってきたが、それでも、各々、生い立ちによる論理そのものは変わっていない。

日本は長い間、士農工商でやって来た
管理する「士」が一番偉いということが既に、ダイナミズムに欠ける世界観だが、次に、「農」「工」という生産者を位置づけ、運命に従い、ひたすら真面目に生きることを美徳としてきた。

そして、おまけのように「商」をやむを得ず付け足した。
それができたのは、恵まれた自然と、外敵の少ない恵まれた地勢だ。
ひたすら真面目でさえあれば、お天道様は見ていなさる。
そういう価値観が染みついた。

実際には、雨や嵐という不測の現象が、生産の役に立つように、人間の生産と文明は、戦争や侵略を含めた「商」行為が担っていた。

世界の原理は「商」であると言っても過言ではない。
開国後、世界の「商」に巻き込まれた時、日本人はまた、士農工で対応し、失敗と成功をしたが、結局、「商」はいまだに身に付いていない。

日本人の中国好きは歴史と文明の成果にある。しかし、「商」の本質を全く理解できず、中韓の態度を毛嫌いする。
今、中韓がパクリで大成功していることを、不快に思う日本人は少なくないが、商品(生産技術)を右から左に動かして、客を喜ばせて金を儲けるのは「商」の論理であって、欧米のように、あたかもルールに沿った慈善行為のような店構えをしていないだけの話だ。

日本の価値観はいまだに士農工だ。日本に商人がいないわけではないが、社会の価値観として尊重しない。そのくせ、職人も農家も、商売人に良いように儲けられてしまう。江戸末期には完全に逆転していた。

今後、日本が「負けない」ためには、産直にした方が良い。
商品を仲買に見せない渡さない。産直だけの持つ価値で勝負するには、市場に行かない。経済競争に巻き込まれない。
やっぱり、鎖国しかない。

どうしても、直接商売をしなければならない場合は、出島の代わりに経済特区を地域に任せる。そのためにも、道州制よりさらに細分化されたポリス連合にするしかなさそうだ。日本には「OO商人」のように渡来人の風土が色濃い地域もあるから、きっと上手く商売をやってくれるだろう。