魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

下ネタかよ 2

2007年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

さんまが気に入ってギャグにしていた
「下ネタかよ!」は、
どんな経緯で生まれたのか聞いてみたいところだが、おそらく
腹を立ててギャグにしているのだろう。

つまり、ただの下ネタと、高度な笑いがたまたま下ネタに絡んでいることとを区別できない素人が「下ネタかよ!」と、分かったような顔をすることへの怒り・・・ではなかろうか

お笑い芸人としては、そんな低次元に解説をしたところで、面白くもないから、表現方法と場違いの違和感でおかしみを出し、素人の不当を笑い飛ばしているのだろう。
どんな話題にも、「下ネタかよ!」と言ってみせることによって。

何の道であれ、プロとして苦労していることに、ちょっとかじった素人が、分かったような批評をすることには腹が立つものだが、
逆に、人の意見に反論するのに
プロでもない人が「評論家のようなことを言うな」と言うのも何だか滑稽だ。あんたいつからプロなのと聞きたくなる。

当事者にアレコレ言うなという意味だろうが、必ずしも、実際やっている本人が分かっているとはかぎらない。
岡目八目と言うように
関係のない第三者の方がよく分かっていることもあるし、酔っぱらいは「酔ってない」と言い、殺したこともない人間が殺人小説を書く。
体験だけを裏付けにする論法は結局、独善的なケンカ論法だ。
主観に基づく内側の論理はナショナリズムにつながり、戦争につながる。

体験とは逆のように見える、ネット社会も、言語文化内の独善世界に埋没しやすい。集団的サイバー体験による確信は暴走を生む。
「書を捨て街に出よう」と同じで、サイバーを捨て街に出ようだ。
実体験は、裏付けにはならないが、情報理解を深くする。

自分の信じていることほどいい加減なことはない。第三者の意見を取り入れながら判断をする心がけは大切だ。
年寄で、「何か変かな、どうだろう」と問いながら話す人がいる。自分を疑う客観性で立派だと思うが、
「オレの言うこと間違っているか」は強制的同意を求めるもので、全く逆の独善だから、言葉のというものは面白い。