魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

黄金虫

2007年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、といっても昭和末だが、京都の鞍馬山で修行したという少年に花街の海千山千の女将が数千万円だまし取られるという事件があった。
今回、大阪の、やはり海千山千の面々が60代のジジイに大金をだまし取られるという事件に笑いながら、ふと京都の件を思い出した。
大阪の場合は、欲の絡んだ狐と狸のばかしあい風コメディーだが、京都の場合も、信仰心の土地柄を思わせるニセ教祖コメディーだ。

詐欺というものはシャレた犯罪で、たいていの場合、命まで取ろうというのではない。だいたい、だまされる側にも事情があって、本人が血まなこの大騒ぎをしている割には、あまり同情されない。

だまされる側の事情というのは、必ずしも物欲だけではない。相手に良く思われようとか、自分が美談の主人公のように酔うとか・・・形のない欲もある。
確かに、借金までしてお金を貸して自殺と、結果的に命にまで関わるような場合もあるが、昔なら雲隠れ、現代なら自己破産と、裸になれば本来、命は助かるはずだ。

冷静に考えれば、どこかおかしな要素があるにもかかわらず、自分の信じたい方を優先させてしまう。
「オレオレ」と言われれば、注目してほしい人に頼りにされたと、自分を信じ込む。人間の寂しさ。
だから、だまされた人を非難する気はさらさらないが、見ている側にとっては、何とも滑稽にして、やるせない話だ。

しかし、だまされたと騒ぎ出すから事件になるが、死ぬまでだまされれば詐欺にはならない。

世の中に、本人だけが有り難がってお金を貢ぐ不可解な現象はいくらでもある。新興宗教など第三者にはまったく理解できないが、本人は至高の価値と信じ込み、すべてを捨てて貢ぎあげる。
新興宗教だけではない、日常生活でも、お寺に納めるお布施や、明細の解らない寄付金。ペットの王子様からブランド品・・・。
これらはすべて、金を出す人間の「思いこみ」以上の価値はない。

お金を稼ぐ方法は知っていても、なぜ「使い方を知らない人」がいるのか。と言うより、古今東西、人間というものは初めから、お金に振り回されるようにできている。

物々交換なら、身の丈を超える貢ぎ物はできないが、お金という仮想概念を、人間はいまだに理解できないでいる。
お金のない時代においてすら、過剰生産物を、労働力に替えて巨大モニュメントの建造に励んだわけで、生産段階の節制より「使い切り」だけを考えるのは今と変わらない。
まして、理屈術だけでありついた役人商売ともなると、まさに金は筆先で生まれてくるものということだ。

自然の恵みで生きていた狩猟漁撈の一線を越えた時から始まったお金の文明狂想曲。もしかすると、国家という宗教に布施すれば、役人スプリンクラーでまき散らされることによって、御浄財となるのかも知れない。
中国では信仰のためにお金を燃やす。
不確かなもののためにお金を捧げるのは信仰や宗教にほかならない。