魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

後期高齢者と公器後礼者

2008年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「後期高齢者」とはよくも名付けたものだ。「死に損ない」の方がまだ笑って聞ける。
「このじじい」「このばばあ」「この死に損ない」と口にする時は、悪態ではあるが、どこかに暖かみがある。日本文化は、子供や年寄りを大切にしてきたからだ。

明治からの西欧化、戦後の小家族民法を経て、個人主義の発達とともに「いたわり合い」の文化が消えてゆき、ついに合理主義は人間を規格別けするまでに至った。これを率先して行った役人は「公器後礼者」と呼ばれるべきだ。

「若い世代が多くの年寄りを背負わなければならない」という思いこみが、被害者意識をかき立て、合理的うば捨て山制度をつくった。
「後期高齢者」という言葉には、エリート役人の血も涙もない合理主義と、年寄りに対する嫌悪感がにじみ出ている。この言葉の冷血さに気づかないことが、何よりの証拠だ。

確かに、これまでの制度や慣習のままでは、年寄りは若い世代のお荷物になる。
しかし、だから、年寄りには自分の墓穴を掘らせて、早く死んでもらおうと思うのは、旧態への甘えだ。知恵がない。
時代が変わったように、年寄りも変わっているのだ。

村の船頭さんは「♪今年60のおじいさん」と歌っているが、当時は子供も10代で自活していた。今やこれは80歳のことだ。
80歳ぐらいまでは、何らかの形でじゅうぶん労働力として使えるし、責任を持って働いている人は通院率も低くなる。
ただし、老人の社会参加には、老人自身も含めた、社会通念の変革が必要だ。

老人医療費がかさむのは、小家族化時代に、年寄りの不安対策がないからだ。年寄りが病院をたまり場にするのは、寂しさと不安からだ。
病院に行かせないために金を取る・・・なんと、知恵がない!
病院に行かなくても良い環境を造るべきではないのか。

多くの年寄りは、年齢に関係なく働きたい。高齢によるさまざまなハンデはあるだろう。ハンデのある人が働ける環境をつくるのは社会的負担ではなく、利益でなければならないはずだ。もし、障害者と高齢者は別だというなら、それは障害者に対する親切ごかしの逆差別だ。
働きたい人が等しく働ける社会こそが、活力を生む。

生き甲斐と自活環境づくりに平行して、健康の安心環境が必要だ。
年寄りは体調不良が常態と言っても良いぐらいで、その多くは加齢によるものだ。日々発生する不具合に、いちいち病院に行くから医療費がかさむ。日常的にちょっと相談できる医療関係者がいれば、恐らく通院は激減するだろう。
かかりつけ医制度はこのあたりを考えたのだろうが、ちょっと相談するのは医者でなくても、看護師OBなどで充分だ。いわば総合病院の受付のように、受診科や症状の重篤度を判断する。

そうした、ちょっとした相談ができる環境をつくるために、医療関係者を軸とする様々なクラブやサークル推進も必要だ。
もしくは、病院とは別に、保健所と病院窓口が合体したような、健康相談所や町内ネットワークでもいい。

「そりゃ歳のせいだよ」の一言で、年寄りの通院は半減する。

そして、実は重要なことはもう一つ。死ぬことへの安心を保障することだ。昔は、ぽっくり寺信仰のようなものが機能していたが、今は、そうした心の病院の方が先に死んでしまった。