転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



父93歳が21日(土)の昼に亡くなった。

前夜、見舞ったとき、呼吸が途切れがちになっていたが、
その都度、呼吸再開していたので、一旦、私は帰宅した。
表情は穏やかで、なんの痛苦も無さそうだった。
翌21日の昼前だったか、看護師さんから電話がかかってきて
「呼吸停止している様子です」とのことだったので、
タクシーで某サ高住に主人とふたりで向かい、
部屋に入ってみると、父の顔は、昼寝のときと変わらない長閑さだったが、
体全体の印象が、一目で「これは死んでる」とわかるもので(爆)、
あのまま眠りながら逝ったんだなと、私は深く納得した。

母94歳は、ここ数日、さすがに父の様子を心配はしていて、
「点滴しとぅねん。ずっと寝とぉし、なおらへんな」
等と、一応の理解はしていたのだが、
不思議なことに、この日は取り乱していなかった。
私が到着したときも、母はロビーに出てテレビを観ており、
「なんも面白い番組が無いねん」
と、いつもの台詞で苦笑いをしていた。
スタッフさん方も、父が亡くなったことを今、母に理解させる努力は、
積極的にはされなかったので、私ももう、そのままにすることにした。
母はそれから入浴の時間が来て、ロビーから直接に車椅子で連れて行かれ、
お風呂が終わって部屋に戻ってきたときも、父のベッドには目もくれず、
介助されて自分のベッドに戻り、疲れたらしく、そのまま寝入った。

私は二人のいる部屋で、総代長に電話をかけて報告をし、
葬儀屋さんを紹介して貰い、自宅への搬送に始まる今後の段取りを話し、
神葬祭の斎主になってくださる神主さんにも電話をかけて
日程の打ち合わせをし、葬祭場を押さえ、等々と
事務手続を進めていたのだが、母は寝入っているのか、何の反応もしなかった。
葬儀屋さんが来られて父を搬出するときも、母はむこうを向いていた。
眠っているのだろうかなと思ったが、私も敢えて、声はかけなかった。
あの「気づかなさ」加減こそは、長生きのご褒美なのだろうかなと思った。
怖いことも不安なことも、何も深く考えることなく居られるというのは……。

そこからはもう、怒濤であったorz
実家に戻って座敷に父を寝かせたあとは、
通夜祭・遷霊祭・葬場祭の打ち合わせと、
親類縁者や御近所等々への連絡その他で、
私の2台のスマホは鳴りっぱなしになった。
葬儀屋さん等のプロフェッショナル以外は、
「葬式に慣れている」人間など普通居ないとは思うが、
とにかく、感覚的に全然わからず見当もつかない事柄を、
次々とカンだけで即座に決定せねばならず、忙し過ぎてマイった。
しかも一人娘で本家の直系であるため、私が喪主なのであった。
父は立場上、挨拶の要る方面が多かったので家族葬には出来ず、
一般葬になったため、尚更おおごとであった。

しかし、結果として、本当に大勢の方々が、
父に別れを告げるために集まってくださり、
久しく行き来の途絶えていた親族とも久しぶりに会うことができ、
故人の力というのは大きなものだなと有り難く思ったりもした。
娘も東京から来たので、家族揃って父を見送ることも叶った。
御近所の方々や総代会の面々にも大いに力になって戴いたし、
神葬祭を務めてくださった神主さん方にも大変にお世話になった。

父はこのような高齢になるまで、とりたてて病気もせず、
最期は典型的な老衰の経過を辿って、ほぼ覚悟した通りになったので、
家族としての私には、全く動揺は無かった。
嘆き悲しむような段階はとうに解脱していたという感じがする(^_^;。
むしろ「本当に良かったねえ」というのが今の私の、父への気持ちだ。
自称「晴れ男」の父に相応しく、
通夜祭の日も葬場祭の日も抜けるような秋晴れであった。
20日に死んだらポゴ氏の誕生日やな(殴)、
と思っていたが、それも一日ズレた(爆)。
……結局覚えやすくて、良かったかもしれぬ(^_^;。

Trackback ( 0 )