転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私にとって極楽三連休の二日目。
お彼岸なので舅姑のお墓に行って、掃除をしてお参りをした。
今月上旬、娘が横浜に戻る直前に参って以来、約半月が経っていたので、
前に供えた菊は、既に茶色いドライフラワーになっていた。
それらを新しい仏花に取り替えて、お灯明とお線香をあげた。
お線香はもちろん、この夏の知床みやげのラベンダー線香だ(笑)。
このところ結構、秋めいてきて朝晩は涼しいと思っていたが、
晴天だと昼はまだ暑く、墓所ではツクツクボウシが鳴いていた。
それから舅宅を見に行き、ダイレクトメールやゴミを片付け、
また戸締まりして、バスに乗って市街地まで帰って来た。
空は青く、外は心地よくて、実に良い休日だった(^^)。

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9月7日に南座で観た『壽三升景清(ことほいで みますかげきよ)』
について、何かは記録しておきたいとずっと思っていたので、
時間のある今、遅ればせではあるが書いてみようと思う。
公演は26日が千秋楽なので、残り僅かになってしまった。

今年のお正月に新橋演舞場で初演されたこの作品が、ついに京都に来た。
市川海老蔵が、歌舞伎十八番に出て来る悪七兵衛景清を、
『関羽』『鎌髭』『景清』『解脱』の四場面において、
それぞれの主人公として演じ分けるという通し狂言だ。
設定は、壇ノ浦の合戦で敗れたあと洞窟に逃れた景清が、
迫り来る死を予感しつつ、人生の終末のひとときに見た夢、というもの。

魏の武将の館に攻め入る、無敵の英雄・関羽としての景清、
源氏の侍たちが、大鎌で首を切ろうとするのに刃をものともせず、
意気揚々と自ら縄にかかってみせる景清。
前後のつながりよりも、場面場面の盛り上がりや展開が見せどころなのは、
景清の一瞬の夢という設定を考えると、いかにもそれらしいものだと思われた。

『景清』に関しては、私はどういうわけか歌舞伎十八番の『景清』よりも、
昔観た近松門左衛門の『出世景清』のほうが自分の中では思い出があり、
こっちの阿古夜は設定が違う…、と途中で道に迷いかけたが、
孝太郎の阿古夜は、この女性の筋の通ったところが前面に出ていて、
虚仮威しのような花魁道中ではなかったところが私は気に入った。
見事な阿古屋がついていれば、それだけ景清の格が上がるのだから…。
大立廻りには津軽三味線・長唄・大薩摩という通常では見られない三重奏が添えられ、
『壽(ことほいで)』の標題に相応しい彩りになったと感じた。

『解脱』は、文字通り景清が悟りを開いて行く様が描かれるのだが、
彼の人生に交わりのあった人達が次々と姿を現すだけでなく、
舞台上にしつらえられた客席に連なる観客もまた、
解脱する景清の生涯に遠く近く関わった様々な人々、という存在に見えた。
この場での海老蔵は、一転して「静」の存在だった。
景清の人生の終末には結局は、源氏も平氏もなく、侍も農民もなくなって、
残ったものはただ魂だけだったのだな、……ということが、
台詞は無いのだが舞台の空気から伝わって来た気がした。

題にもある『三升』は市川宗家の定紋だ。
刀の鍔が四角になっていて模様が三升だったり、
立ち回りの途中に海老蔵の周囲に縄を重ねて三升を作って見せたり、
また終幕『解脱』で舞台の両端に格子状に設けられた客席の名称も
『三升席』となっているなど、三升になぞらえた演出が各所にあった。
公演前に海老蔵が成田山に祈願して貰ってきたというお札の、
『商売繁盛』『火の用心』なども舞台上に貼られていた筈なのだが、
三階席からはそれは確認できなかった。

引幕には華やかで豪壮な海老。
この絵は、亡き父・團十郎が、海老蔵襲名を祝って描いたもので、
海老蔵襲名披露興行のときにも使用された。
果敢に挑戦する海老蔵を、團十郎が大きく包んでくれているようで、
眺めていて胸が熱くなった。

海老蔵は八面六臂の大活躍で、関羽見得も立派なら、
鎌髭での剛胆ぶりも観ていて爽快だった。
牢破りの景清の豪快さも存分に見せて貰ったし、
解脱の場は能舞台のような荘厳さだった。
なつおちゃん、貴男の御子息は、実に大きな主演者になりましたよ。
堪能させて頂きました!


追記:『解脱』の場面を観ていて、自分の中にもやもやと
佐藤恭子先生に昔習った、ロシア演劇の話が蘇ってきた。
それは文章化することもできない、ただのイメージの断片のような
かなり正体不明のものだったのだが、後々何かに繋がるかもしれないので、
ここに記録しておこうと思う。
まず、メイエルホリドが取った実験的手法の中に、確か、
『舞台と客席の連続性』という考え方があったはずだ。
三升席には何か、そのあたりに繋がる発想があったような気がした。
それと、『解脱』の開始部分は舞台も客席も照明が落とされて、
かなりの時間、真っ暗なままで進行するのだが、
これまた確かメイエルホリドが、新作の革新的な試みとして
真っ暗にする演出で舞台を始めたら、スタニスラフスキーだか、
ネミロヴィチ・ダンチェンコだか誰だか(全然思い出せない・涙)が途中で、
「もうやめろ!観客は○分以上、何も見えない芝居に耐えられるものではない」
と言ってそのやり方を否定した、……とかいう逸話があった筈だった。
あれは、いつの何の話で、そのあとどうなったんでしたっけ(汗)。
ああ、佐藤恭子先生にもう一度、確認させて頂くことができたら(爆)。

追記2:舞台上の暗闇を否定したのはスタニスラフスキーで、
1905年10月『タンタジールの死』舞台稽古のときの逸話だったようだ。
台詞等は若干、私の記憶とは異なっていたが(汗)。
(『メイエルホリド』佐藤恭子・著 昭和51年)

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