9月25日が舅の命日で、亡くなって今年で丸三年過ぎた。
十日ほど遅れたが、きょう、舅宅で、祥月命日の法事をした。
日頃お世話になっているご住職様と、家族だけだったので、
気楽ではあったが、姑が出席できない状態なのが残念だった。
法事のたびに泣いていた娘も、さすがにきょうは泣かなかった。
年月が少しずつ、淋しさを癒やしてくれるものなのだなと思った。
私にとっても、最後に緩和ケア病棟で過ごした毎日のことが
今ではかなり和らいだ記憶になって、
かわりに、元気だったときの舅の笑い声や、煙草の匂いや、
ガラガラっと仏間の戸を開けて廊下に出て来たときの気配など、
日常的な記憶のほうが鮮明に残っている、と感じるようになった。
もっと以前に亡くなった、自分の祖父母について考えてみても、
葬儀の直後は、最晩年のことばかりが印象に残っていたが、
一年、二年と過ぎるに従って、思い出すのは、
大抵、元気だったときの姿だけになった。
いなくなった人に関する記憶というのは、不思議なものだなと思った。
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