転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



8月は割と落ち着いていた母の精神状態が、また悪化している。
ホームの職員さんの説明というか、報告によると、
先週は、幾度案内されても、自分で食事を拒否しておいて、
「一食も出て来ん。ここは、ひどい」
と文句を言った日があったそうで、
また、ホームの連携病院が気に入らず、そこの医師への苦情を、
夜中に薬剤師さんの緊急窓口に電話して、
延々と訴えたりもした、とのことだった。

一昨日には主人が東京出張で留守だったので、私は晩ご飯の支度が要らず、
そのぶん、ホームで夕方から夜まで両親とゆっくり一緒にいたのに、
昨日はもう、母から、1日で7回電話があり、
「急に涼しくなったが、皆さん元気ですか」
「私は窮地に陥っている」
「おじいちゃん(父)が、全く御飯を食べず、元気がない」
「あんたに今後のことを相談したい」
「私だけ、あんたの家の近所の老人ホームに移ろうと思う」
等々と繰り返され、閉口した。
私が仕事中とか、外を歩いている最中などに携帯が鳴り、
応答できないと繰り返し着信があり、かけ直すと出ず(--#)、
何度目かにやっと巧く受けることができ、話を聞くと上記の通りで、
更に帰宅すると家電にも、同じ内容で留守録が3件、入っていたorz

高齢で頭が壊れたのだから、どうしようもないのだが、
ある意味、乳幼児と似ていて、こちらが超・忙しいときに限って、
その尋常でない空気を察するのか、グズり始めて手を取るのだ。
そもそも私が忙しいのは、会社の仕事もあるが、
それ以上に、両親、特に父が、なんの始末もつけずに抱え込んで、
挙げ句、どうにもならなくした、実家の仕事の引き継ぎや後片付け、
諸手続、金策、等々に日々、奔走しているからで、
「もっと会いたい」「あんたはいつも忙しい」「電話しても出ん」
と苦情を言われても、私だって、
「誰のせいやねん(--#)」
と言いたいものがある。

晩年に、ゆっくりと時間を取って私に一緒にいて欲しかったのなら、
どうして、そうできるように自分たちで道筋をつけておかなかったのか。
「どれも待った無しなので、御願い、全部をこれから何とかしてね」
とばかりに、山崩れ寸前になった用事を丸投げされたうえ、
「そんなに忙しそうにしないで、ゆったりと腰を据えて話を聞いて欲しい」
と言われても、両立は不可能だ。
私だって、ハッキリ言ってストレスや過労で死にたくはないので、
解決済みの、同じ話題の反復に過ぎない愚痴に付き合う時間があったら、
その分、少しは自分の楽しいことをしたい、または1人で横になりたい、
という選択になるのは、やむを得ないことではないか。

いずれ貴方も行く道、老い先短いご両親に優しくしてあげなさい、
と、介護の全責任を1人で負ったことのない他人ほど気軽に言うようだが、
口先だけ「ほんとですねぇ、心掛けます~」と言いつつ、
内心では「申し訳ないが、できません」と思っている。
あと○年等と「老い先の短さ」が予めわかっているならともなく、
もしかするとあと十年以上続く可能性もあることに対しては、
割り切った取捨選択をして行かないと、共倒れになる。
「老い先短い」明らかな高齢者たちには、
若い者を引きずり倒すパワーがある、ってご存じでしたか(^_^;。
道連れにされて死んだ、中年や初老の人達を、
私の見知った範囲でも、何人か思い浮かべることができる。
「いずれ私も行く道」などという保証自体が無い。

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唯一の幸福は、私にきょうだいが居ないことだ。
今、私はすべてを1人で決定でき、くちばしを入れる身内は存在しない。
きょうだいが居れば助け合える、という言い方をする人もあり、
仲の良いきょうだい関係とはそのようなものなのかもしれないが、
私は必ずしも、そう巧く行くことばかりとは思っていない。
もし、私が今のまま司令塔となり、
「私が親の話相手をするから、あれとこれと、それとを、
いついつまでにやっておいて頂戴」、もしくは、
「私は今すぐ、あれとこれと、それとをやらなくてはならないから、
その間、両親の相手をして話を聞いてやって頂戴」
と頼んだときに、気持ち良くやり遂げてくれるきょうだいなら欲しいが、
きょうだいとはそもそも、私のして欲しいことだけを
私の思い通りにやっておいてくれるような、都合の良い存在ではない。
意見もあるだろうし、きょうだいにはきょうだいの生活がある筈なのだ。
その意味では私が欲しいのは、自分とは別人格の「きょうだい」ではなく、
私自身の「クローン」もしくは「コピー・ロボット」だ(^_^;。
それなら私の意のまま、どんなに残酷にコキ使っても私自身だからOKだ。
目下、両親の問題に対処するだけでも大変なのに、
きょうだいと交渉し、相手の状況やその配偶者の気持ちにも配慮したうえで、
意見をすり合わせる仕事までせねばならなくなったら、私は倒れる。

更に、将来的に相続をするのも私1人(の筈・爆)なので、
相続分が残った場合でも、借金が残った場合でも、
いずれにしても私ひとりの話であり、大変に気が楽だ。
分け方が不公平だとか、
介護や家の始末で無駄使いしたから預金が残らなかった、等々と
私のやり方に外側から文句を言って来る人間は、誰も居ない。
仮に某か金銭が最後に残ったとして、遠方在住のきょうだいと私で、
民法に従った等分の相続になると言われたら、
これだけの時間と体力を費やしてきた私は、キレますよ(^_^;。
相手は相手で、自分は遠距離にもかかわらず物凄く頑張った、
と思っていたりするだろうから、きょうだい喧嘩は避けられまい(^_^;。
棺桶の前で、親を泣かせるような言い争いはよそう、
と、もし理性で耐えたとしても、
そのしこりは、きっと生涯、私の中に残り続ける。

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実家にいた頃、母は幾度も、
「何もせんでええという自由な境遇になって、早く安心したい」
と言っていて、現在の暮らしぶりはまさにその通りのものになった。
母は自分でもそれは認めていて、
「ここは天国や。御飯は出てくる、24時間、誰かがおって相談できる、
掃除もしてくれる、お風呂も入れてくれる。ええ世の中になった。
家のことは、ぎりぎりの滑り込みやったがあんたに受け継いで貰えた。
あんたに迷惑をかけて済まんね。ほんまに有り難い」
と、良い言葉を、しょっちゅう言っているのだ。
こういう言葉は、言わないより言ったほうが百万倍、良い。
その点は私は母に感謝している。
半分は、母は自分にそう言い聞かせているだけかもしれないが、
その認識自体は、大筋で間違っていない。

しかしそれで幸せになったのかというと、かなり違っていて、
やっと手に入れた自由な時間の多くを、今や母は、
不満や不幸せを見つけ出すために使っている。
『小人閑居して不善を為す』
と、これは私が言い出したのではなく、母が自分のこととして自分で言った。
「小人物である自分は、暇を持て余すとろくな事をしない」
と母は言いたいわけだ。
元来、母は賢い人なので、調子の良いときには
自分の状態がかなり客観的に把握できているのだ。

(尤も、本来的には、原文の「小人閑居為不善」は
「小人物は人が見ていないとなると、良くないことをする」
と解釈すべきだろう。母のは、ちょっと違う。
……悪いね、私は漢文が趣味なんだよ・逃)

一方、父のほうは、不平不満がないことはないのだが、
口数が多くないせいか、母ほど私を怒らせることは、ない。
観察していると、確かに出される食事の大半は残して、
差し入れの菓子パンや、売店で買ったお菓子などを主食にしているが、
その他は、言われるままに風呂に入り、糖尿病関係の受診をし、
用事のないときは、テレビをつけたまま昼寝をしたり、
杖をついてホーム内を散策したりして、父は淡々と暮らしている。
おもろいこともないが、目をサンカクにして訴えるほど嫌なこともない、
という様子に見える(^_^;。

夫婦仲は、私の見るところほぼ良くない(爆)が、
それは私が子供の頃からそうだったので、珍しいことではない。
「昔はふたりで力を合わせて、いろいろなことを乗り切ってきた」
と、母は懐古しており、完全に嘘だとは言わないが、
その物語はかなり美化されたものだというのが、私の認識だ。
私が小学生の頃から諍いはしょちゅうで、母はよく尖った物言いをし、
父は不機嫌に黙り込むことが多く、しばしば家の中は不穏になった。
老いて突然に不仲になったとは、私には到底、思えない(爆)。

ともあれ、近々、母には精神科を受診させようと思っている。
戦前の教育を受け、偏見のカタマリである母は、
「人をキ○ガイ扱いして!」
と怒りそうだが、そこはまあ、
「よく腸の具合が悪いと言うとるやん。ストレスが原因かもしれんから」
という方向で、説得してみようかと私は今、考えている(^_^;。

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・私が今日あるのは、両親の御蔭だ。
・私にはわからない、私に見せなかった、両親の苦労が多々あった筈だ。
・親の話を聞けるのも、親が生きていればこそだ。
・両親がああなったのは、老いたせいであって、あれは本来の姿ではない。
・90歳になっても居てくれて、私は、両親に感謝しなければならない。

以上の五箇条を、私はお題目のように自分に言い聞かせているが、
それで現状のシンドさが軽減されるわけではない(汗)。
怒る前に5秒数える的な若干の効果があるのみだ。

前も書いたが、2人を反面教師として私がつくづく学んだのは、
老いきっていないうちに、――どんなに健康でも前期高齢者のうちに、
仕事や家の始末、その他の懸案事項に結着をつけ、
自分ひとりで金融機関その他に出向ける間に、預金や保険を整理し、
自分の幕引きを自分で意識的にやっておくべきだ、ということだ。
幸か不幸か、悪性疾患の診断や、余命宣告をされることのないまま暮らすと、
自分の始末を自分でつける能力がなくなるまで、そうと気づかず老い続け、
最後は社会的に未整理・未解決の問題の山と、ゴミため同然の家屋を残して、
周囲にも世の中にも多大な迷惑をかけることになる。
後期高齢者にもなるときに、中年期と同じ程度の自覚しか持たずにおいて、
若いですね、と近所の人にお世辞を言われて喜んでいる場合ではないのだ。
まだまだ十分にやれる年齢や体力のときにこそ、
「もう自分は老人だ、自分で自分の人生の後片付けを始めよう」
という認識を、早く持った者勝ちだと、私は思っている。
それは残される者にラクをさせるためだけでなく、
自分の本質的な納得のためにも必要なことなのだ。

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