転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



三津五郎さん死去 59歳すい臓がん肺転移(日刊スポーツ)
『歌舞伎俳優で日本舞踊坂東流家元の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名・守田寿=もりた・ひさし)さんが21日午前、すい臓がんのため都内の病院で亡くなった。59歳だった。2013年9月にすい臓がんの摘出手術後、昨年4月に舞台復帰した。しかし、9月に、12月に予定した主演舞台の降板を発表。治療に専念したが、再び舞台に立つことはかなわなかった。大親友の中村勘三郎さんに続いて、歌舞伎界は次世代の大きな柱を失った。』

去年の8月に歌舞伎座の納涼歌舞伎で観た『たぬき』が、
私にとっては三津五郎の最後の舞台になってしまった。
奇しくも、一度は死んだと思われて葬式まで出されたあと、
墓場から蘇って帰って来る男の役だった。

三津五郎には、昔から数え切れないほどの舞台を見せて貰ったし、
今も鮮やかに思い出せる舞台姿が様々にある。
だからこそ尚更、還暦を迎えた三津五郎を観ることができなかったのは、
歌舞伎ファンとして、残念でならない。
一般的に歌舞伎役者の60歳は、最高の円熟期だと私は思っており、
役者・三津五郎にとっても、おそらくこれから数年が、
本来ならば最も大きく開花できる時期となった筈だと思うのだ。
特に近年の三津五郎は、観るたびに、
「巧い!!」と唸らされるような舞台を見せてくれていただけに、
その先にあったものの見事さを、私はどうしても想像せずにいられない。
限りなく大きな損失となった。
これからの坂東三津五郎は、数々の映像の中にその姿を留めるのみだ。

舞台以外で私の印象に残っている三津五郎は、
八十助時代、偶然にその楽屋入りに遭遇したときのことだ。
20年以上前、児太郎(現・福助)の出待ちをする友人につきあって、
私が旧・歌舞伎座の楽屋口にいたら、そこに八十助がやってきたのだが、
その彼が、それはそれは怖い顔をしていたことが、今でも忘れられない。
若く無遠慮だった私でさえ、そのときの八十助には声もかけられなかった。
「ぇ……、さっきの、八十助、ですよね……(汗)?」
と一緒にいた友人も彼の後ろ姿を目で追いながら小声で言った。
普段の八十助は、笑顔を絶やさない気さくな感じの人に見えていたのに、
その日の彼は、出番を目前に、別人のように鬼気迫る顔つきをしていたのだった。
八十助がすべてを賭けている舞台というものの大きさが、
ひしひしと伝わって来て、心底、圧倒された瞬間だった。

(そうだ、あれは八十助が『名月八幡祭』に出ていたときだった!)

****************

十年前、第33回『俳優祭』で『奈落――歌舞伎座の怪人』に主演したとき三津五郎は、
役者三津五郎は吸血鬼として、何百年も延々と生き続けてきた存在だ、
変化舞踊で有名だった三代目三津五郎も、
喜撰の巧かった七代目三津五郎も、皆わたしだ、
と言っていたよね。
「年とっては眠り、若返って目覚め、また新しい三津五郎として蘇ってきた」
「わたしは生きる。これからもまだまだ何千年も生き続けるのだ」
と……。
だったら、喜撰も蘭平も宗五郎も弁慶も物凄く見事だった十代目三津五郎は、
今はただ少し眠っているだけで、きっと、きっとまた、帰って来るのだよね…(涙)


追記(2月25日):
音羽屋の旦那さんとの共演でも三津五郎の思い出は尽きないが、
平成元年(89年)に音羽屋が初役で宗五郎を務めた際に、
八十助だった三津五郎が三吉の役で出てくれたときのことが、
私は今でも忘れられない。
配役として大変豪華に感じられたのも無論だが、
宗五郎の芝居は、周囲の受けに成否がかかっているので、
先代松緑の時代からこの演目をよく知っている八十助が、
三吉として菊五郎のそばにいてくれたことは、
菊五郎劇団としてのこの芝居の継承という点で大きな意味があり、
八十助の果たした役割は非常に大きかったと、私は今でも思っている。

尾上菊五郎、三津五郎さんと1か月前対面「夏には復帰」聞いたのに…(2月24日付スポーツ報知)
『歌舞伎俳優の尾上菊五郎(72)は23日、歌舞伎座「二月大歌舞伎」の出演前に報道陣に対応し、三津五郎さんへの思いを語った。』『「つらいですね…」と切り出すと、約1か月前に三津五郎さんの自宅で会っていたことを明かし「病状や、今後のことも相談したいということで、1時間ほど話して経過などを聞いた。『夏には復帰したい』と前向きに話していたので、良かったなと思っていた。それが最後のお別れです」と肩を落とした。』『さらに、自身の還暦には三津五郎さんから赤いキャディーバッグを贈られたエピソードを明かすと、「来年は何を贈り返そうかと考えていたところだった。残念です」と肩を落とした。』

三津五郎さん告別式 菊五郎切々と弔辞(2月25日付デイリースポーツ)
『21日に膵臓(すいぞう)がんのため59歳で亡くなった歌舞伎俳優・坂東三津五郎さんの葬儀・告別式が25日、東京・青山葬儀所で営まれ、歌舞伎俳優・市川海老蔵(37)ら歌舞伎界をはじめ、多くの著名人が参列した。』『三津五郎さんの長男で歌舞伎俳優・坂東巳之助(25)が喪主を務めた葬儀では、歌舞伎俳優・尾上菊五郎(72)が弔辞を務めた。』『菊五郎は「残念だ。あなたは本当に若手を可愛がって、育てて下さいました。今後3年後、10年後にあなたがまいた種が花開いてくれると思えば、楽しみです。あなたはネオン街も好きでした。向こうの世界でいい店を探しておいてください」など切々と故人に語りかけた。』『戒名は香り漂う芸が客席に醸し出すなどの意味を込め「香藝院爽進日壽居士(こうげいいんそうしんにちじゅこじ)」とした。』

尾上菊五郎 三津五郎さんに誓った「巳之助くんを立派な役者に」(2月25日付スポニチ)
『すい臓がんのため21日に59歳で死去した歌舞伎俳優で日本舞踊坂東流家元の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名守田寿=もりた・ひさし)さんの本葬が25日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。』『歌舞伎俳優の尾上菊五郎(72)は弔辞で、「若手をかわいがって、育ててくれました。3年後、5年後、10年後に君のまいた種が花咲き、歌舞伎界を背負って立つと思うと私も楽しみです」と親身になって後輩を指導した三津五郎さんの人柄を称賛。そして「きっと立派な役者にしてみせます」と喪主をつとめた長男の坂東巳之助(25)を一人前の役者に育て上げることを天国に誓った。』『城好きとして知られ、BS番組ではナビゲーターも務めていた三津五郎さん。「あなたは姫路城が好きと言っていましたね」と語りかけた菊五郎は、“夜の街”が好きだったことも明かし「向こうの世界のネオン街でいい店を探しておいてください」と親しい先輩らしい粋な弔辞で笑わせ、そして泣かせた。』

三津五郎さん告別式 盟友・菊五郎が弔辞 「残念だ…」と悲痛(02-25 15:40 ORICON STYLE)
『今月21日にすい臓がんのため亡くなった歌舞伎俳優の十代目・坂東三津五郎さん(本名・守田寿=もりたひさし 享年59)の告別式が25日、東京・青山葬儀所でしめやかに営まれた。弔辞を読み上げた歌舞伎俳優・尾上菊五郎(72)は「本当に残念だ」と声を振り絞りながら故人との思い出を振り返った。』『「寿くん」と語りかけた菊五郎は「1月前に病状や今後のことを話したいということで君の家で二人きりで話したね」と回顧し「帰り際に『風邪を引かないようにね』と玄関で別れたのが最期。残念だ…」と悔やんだ。』『続けて「君は、若手を可愛がって育ててくれた。君の蒔いた種が花咲き、歌舞伎界を背負って立つと思うと、私も楽しみです」と感慨深げに話した菊五郎。喪主を務めた長男で歌舞伎俳優の坂東巳之助(25)に触れ「きっと、立派な役者にしてみせます」と誓った。』『また、神妙な様子で話す一方で「君は本当に趣味が多くて、野球やゴルフをした。お城も好きで自分の番組を持っていたね」とプライベートの一面を明かし「『姫路城が好きだ、彦根城が好きだ』と言っていたけど、君はキャバクラ嬢やホステス嬢も好きでした」と暴露。「どうか向こうの世界のネオン街でいい店を探しておいてください。私がそちらにいったらいい店を紹介してください。本当にこれまでお疲れ様でした。ありがとう」と冗談交じりに締めくくった。』『三津五郎さんは、2013年9月にすい臓がん摘出手術を受け、昨年4月に舞台復帰を果たしたが、同年秋に出演予定だった主演舞台『芭蕉通夜舟』の降板を発表。再び療養に専念していた。』『祭壇には、2009年に歌舞伎公演などの宣材用に撮影された写真を使用。三津五郎さんは晩年、生け花を好んでおり、トルコキキョウなど計4100の花や、2009年に授与された紫授褒章などが飾られた。』

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