最近、とにかくモーツァルトが心地よくて、
フー・ツォンの弾くピアノ協奏曲のCDを何枚も立て続けに聴いた。
子供の頃や、今より若い頃の私は、
モーツァルトの良さが、実は、あまり、わからなかった。
綺麗な音楽だとは勿論思っていたけれども、
魅力は、その「綺麗」さだけで、
全体としてのモーツァルトはあまりにも無難で、
定型そのものの音型ばかりで、破綻も意外性もなく、
聴いていてドキドキしないという点で、つまらなかった。
ところが、私も歳を取ったということなのか、
いや、聴き手として一段階進歩したと思いたいのだが、
とにかくこのところ、モーツァルトが面白くて仕方がない。
特に、フー・ツォンの演奏が私は好きだから、
それとの相乗効果もあると思うのだが、
聴くたびに、新しい魅力が出て来るようで、唸ってしまう。
定型が定型としてぴたりと決まっていることの素晴らしさ、
それだからこそ醸し出される、奥の深い音の綾、
無駄なものが一切ない究極の洗練、
・・・そういったものが、少し、見えてきた気がするのだ
(すみません、なんか偉そうです(^_^;)。
ところで、この流れで、モーツァルトのピアノ・ソナタも聴こうと、
某ピアニストの弾く第11番『トルコ行進曲付き』を聴いてみたら、
私は、不意に、どうにもたまらない気持ちになった。
綺麗に流れる音楽なのは良いが、私の聴きたいものは、これではない!
と思ったのだ。
もっと聴きたい箇所があった。
こんなにあっさりとではなく、もっとこだわりたい箇所があった。
そう思って、私は、しばらく聴いていなかったポゴレリチの同曲のCDを、
とても久しぶりに出してみた。
聴いて、私は、
そうだ、そうだ、これだ~~!!
という、ぞくぞく来るような満足感を味わった。
私はやはり、ポゴレリチが好きなのだった。
ポゴレリチは、私の聴きたいところ、こだわりたいところ、
さらには私が気づかなかった聞き所まで、
絶妙な演出で聴かせ、引っ張り、ときに、わざとはぐらかし、
と思うと、グウの音も出ないところまで駄目押ししてくれる。
これだ、この呼吸でなくては~~(T.T)。
聴きながら思ったのだが、ポゴレリチは、
モーツァルトを弾くときでさえも、
和音の構成には超人的な神経を研ぎ澄ませているように思われる。
音の響きを、彼は全身で聴き尽くし、弾き尽くそうとする。
その物凄い集中力と執着のために、彼の音楽は、
ときにあまりにも遅いテンポに傾倒してしまうのではないだろうか。
全身でひとつひとつの音を聴き、受け止め、
音のすべてを味わい尽くすまで、
彼は次の音に行こうとしないのではないかと思う。
それを味わうためには、聴き手もまた、彼と同じように、
彼の執着する音に固執して聴き、
彼の聴かせる音に耳を澄ませなければならない。
彼が音を味わっている最中に、次を求める聴衆だと、
彼の音楽を共有することができず、ただ苛立ちだけが残ることになる。
こういう部分で呼吸が合わない聴き手からは、
彼の音楽は異端と言われ、拒否されることになるのだろう。
モーツァルトを聴きながらこのようなことを考える日が来ようとは、
十年前には思ってみたことすらなかった。
ここに来てモーツァルトを再発見でき、
ポゴレリチの演奏に再度、心を添わせることが出来たのは、
私にとって、とても嬉しく、有り難いことだったと思っている。
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