「子ども」やめ「子供」 文科省あえて漢字表記(くまにちコム高橋俊啓)
『文部科学省は7月中旬から、省内の公文書で使ってきた「子ども」の表記を「子供」とするよう徹底している。子供の「供」が差別的な印象を与えるとして敬遠してきたが、「差別表現ではない」と判断し、あえて方向転換を図っている。』『文科省の文書は、常用漢字を使うのが原則。文化庁国語課によると「子供」は常用漢字だが、1980年後半から省内の公文書で「子ども」「こども」を使うようになったという。法律の条文も、98年から「子ども」を使用。同省総務課は「供が『お供え物』などを連想させ、差別的表現だという意見が、審議会などであったことが要因」と説明する。』『これに対し、今年3月の通常国会で、自民党議員から「小学生は『子供』と学んでいる」「(漢字とかなの)交ぜ書きは国語を破壊する」などの指摘があったため、本年度に入って省内で協議した。』『この中で、▽「子供」はもともと子の複数形で、単数でも用いられるようになった▽「供」は当て字で「共」を使うこともあったが、「供」が定着した-との見解が示されたことから、「『子供』は差別表現でない」との結論に至ったという』
私は以前から交ぜ書き全般が気に入っていなかったので、
これには溜飲が下がった(笑)。
私はイデオロギー絡みの主張をしたいわけではないのだが、
前々から幾度か書いている通り、おおまかには、
「体言や語幹は漢字で書き、仮名を使うのは活用語尾や付属語など」にしたい、
という感覚が自分の中にあるので、交ぜ書きは好きでなかった。
私にとっては、『子供』ならひとつの名詞以外の何物でもないが、
『子ども』と書かれると『女ども』『野郎ども』と同類に見えるし、
『子供と魔法』という表記なら視覚的にわかりやすいが、
『子どもと魔法』になると『どもと』部分がモタついてイヤなのだ。
だから私は、自分の日記の中では常に『子供』表記を採って来た。
しかしそれは私の主観的美意識の話だと長らく思っていたし、
私が交ぜ書きについて、もやもやと不快感を覚えるのと同様に、
『子供』と見れば反射的に『お供え物』を連想して嫌悪感が募る、
という人も世の中にはあるのだろうと思われたので、
私自身は人様の表記の趣味について、改めろとかどうとか、
端から言おうと考えたことはなかった。
そもそも私は、自分が専攻した言語学の分野では、
最初から記述文法の立場で習った世代なのだ
(=規範文法では誤用とされる表現や語彙であっても批判対象にせず、
話者の使用習慣の変化と見なし、そのきっかけや経緯に注目する。
この立場からは『子供』も『子ども』もいずれも否定されない)。
また、そうでなくても教育関係やジャーナリズム方面が特に、
『子ども』表記を好んでいるという感触が私にはあり、
「アナタは差別していることに気づいていませんね」
とそのうちどこかからメールが来るのではないか、
と内心、恐れたりもしていた(←自意識過剰・小心者)。
それがこのほど、私のやっていることが差別行為ではない(爆)、
との、文科省の同意が得られたようなので、光栄に思っている(^_^;。
私は思想的な背景とは関係なく、漢字と仮名のそれぞれの機能について
自分なりの原則があって、その範囲で書きたいと願っていただけだ。
その結果として選んできた表記が、差別でない、
と公的に言って貰えたことはとても嬉しかった。
それと同時に、上記の記事によれば、
『(文科省)総務課は「各教育委員会に『子供』を使うよう呼び掛ける考えはない」との見解』
ということで、それも好ましく感じている。
感覚というのは慣習によって培われてきたものでもあり、
『子ども』が当然だ、そうでないと不快だ、という人だって今は居るだろうから、
それは尊重されるべきだと私は思っているのだ。
公務員の書く公文書では、完全に個人の勝手が通るものでもないが、
文科省が一応の柔軟性を見せている点は悪くないと思った。
ちなみに、昔から私がタウンページを見ては憤慨していた『僧りょ』という表記も、
現在では『僧侶』と書くのが一般的になり、違和感を覚えることがなくなった。
私はとにかく、日常的で平易な体言をわざわざ交ぜ書きにする
(=漢字で書ける部分をわざと仮名書きにする)、
という表記方法が好きでないのだ(個人の感想です)。
Trackback ( 0 )
|
|