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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



眞子さま、英国留学から帰国 「充実した楽しい生活」(朝日新聞)
の記事の中に宮内庁発表の文章が出ていて、
そこに特異な日本語表現があると、友人某氏からの指摘があった。
『(眞子さまは)オランダ国では、国王王妃両陛下とお目にかかられ、御一緒にお過ごしになる機会があったものと伺っています。』

『お目にかかる』は『会う』の謙譲語で、
我が国の眞子さまは、オランダ国王ご夫妻に敬意を表する立場として
この表現が使われているのだが、
同時に宮内庁は眞子さまをも敬う立場なので
語尾の活用が尊敬語の『かかられ』になったものと思われる。
先方が、オランダ国王のように敬意を表現する必要のある対象でなければ、
単に、『(眞子さまは誰某に)お会いになり』で済んだことだろう。
つまり、この表現の中に見える尊敬度(という用語は無いだろうが)は、
「オランダ国王夫妻」>「眞子さま」>「宮内庁」という構造になっている。

さて、これに感心したあと、今度は夜になってから、
主人の観ていた『銀河英雄伝説』のアニメを一緒に覗き観してみたらば、
なんと帝国宰相秘書官ヒルダが、似たような言葉遣いをしている場面があった。
彼女は、帝国宰相ラインハルトの姉君アンネローゼを山荘に訪ねたとき、
彼からの伝言を伝えるのに、
『(ラインハルトさまは)……と申されました
と言ったのだ。
普段の私なら、これを敬語の誤用として笑ったかもしれなかったが、
昨日は朝の、眞子さまご帰国の記事の一件があったので、
これももしかしたら、謙譲語で活用が尊敬語になったもの?と思い至った。
それで原作の『銀河英雄伝説 第四巻』の該当箇所を調べてみると、やはり、
『(ラインハルトさまは)……と、そう申しておられます
という言葉遣いになっていた。
『…と仰いました』でもなければ『…と申しております』でもないのだった。

なるほど、ラインハルトから見れば、姉上は尊敬の対象だ。
だから彼はアンネローゼに何かを『申し上げる』立場にある。
しかし同時に、秘書官ヒルダにとってはラインハルトは上司では済まされず、
銀河帝国の頂点に上り詰めている人物であるので、
彼女はラインハルトに対して臣下に等しい礼を尽くしている。
つまり、「アンネローゼ」>「ラインハルト」>「ヒルダ」の順だ。

普通は、自分の上司の行動に触れる際でも、こちら側の人間には敬語を使わず、
会話の相手である先方に対しての、謙譲語または尊敬語だけでよいので、
このように謙譲語と尊敬語が一体となった表現はしないものだと思うのだが、
特殊な上下関係に配慮する必要のあるときに限っては、
全くあり得ないことでもないようだ、と私は昨日、認識を新たにした。
まことに、日本語の敬語の持つニュアンスというのは難しいものなのだった(^_^;。

それにつけても、アニメの『銀河英雄伝説』は
本当に腐女子向けなのだなと思い、昨日は改めてウケてしまった。
何しろ、アンネローゼの回想場面で、少年時代の美しいラインハルトと、
その親友キルヒアイスが、神話の天使みたいな衣をまとって手を取り合っており、
やがてラインハルトの背中に真っ白な翼が生えて、
ふたりは輝きながら天空へと舞い上がって行ったのだ。
アンネローゼさま、こんな人里離れた山荘で、
そーゆー妄想にフケってお過ごしだったのですかっ(^_^;。
主人が私の背後から、
「モホ、っとした感じよね~」
と言った。

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世の中は、どんどんスマホに移行している。
電車の中でもホールの客席でも、スマホを使いこなす方々を
当たり前にたくさん見かけるようになったし、
携帯ショップでも最早スマホが主流で、ガラケーは激減している。
我が家でも、そろそろ替えどきか?という話が時々出るが、
ユーザーの感想などをネットで読む限りは、
ガラケーに慣れた者には、スマホのストレスは大きいようだし、
価格的にも、主人はまだ納得できないというので、
家族三人、未だにガラケーを愛用している。

私など特に、ほとんどメールのためにしか携帯を使っていないので、
スマホ移行の意義がなかなか見いだせないユーザーであるわけだが、
しかし携帯のメール機能を愛しているかというと、別にそうでもない。
誤変換に泣かされることはとても多いし、
語彙の少なさに辟易させられることも、よくある。
主人は、自分のガラケーの使いやすさを評価していて、
手放したくないと言うのだが、私はそのあたりについては曖昧だ。

私の現・携帯に関して、ひとつ感心しているのは、
全く単語登録などしていなくても、
『いまわのきよしろう』を一発で『忌野清志郎』と変換してくれることだ。
私が教えたのではなく、最初からそうだった。
また、『あんとにおいのき』も、ちゃんと『アントニオ猪木』と変換する。
『杏と匂いの木』などというタワケは、うちの携帯は言わない。
なかなか、私仕様の賢い携帯ではないか、と最初は思ったのだが、
しかし『ぽごれりち』と入れると、彼のことは全然知らないようで、
『ぽご礼理知』と勝手な変換をしてくれた。何人(なにじん)か!
別に奇跡の携帯だったわけではなかった。

また、こいつは(ほかの機種もだろうが)慣用句の類いには概して弱い。
例えば『かぜがふけばおけやがもうかる』を
『風が吹けば桶屋が儲かる』に一発変換することなど、
一太郎なら朝飯前だが、私の携帯だと、
『風が吹けばおけや蒲生刈る』と、後半が腰砕けだ。
『こうやのしろばかま(紺屋の白袴)』だと『荒野の白袴』になり、
ちょっと格好いいような気もするが、
『ちぎっては投げ ちぎっては投げ』と入れようとすると、
『ちぎって鼻毛 ちぎって鼻毛』になり、お下品だ。
こういう点は、やはりスマホにしてATOKを搭載したほうが、
変換に関するストレスが減って、快適になるのだろうと思う。
私にそれが使いこなせるかどうかは、また別の問題なのだが。

……という話を、今朝ほどしていたら、娘が言った。
「どんな誤変換も、わたしの携帯には、勝てんよ」。
聞けば、彼女の携帯に、『もってくる』と入力すると、
表示される変換候補が尋常でないのだった。
『もってくる』の『も』の字もなく、出るのはいきなり、

 bring bringの
 bringを bringに bringが bringは bringで bringと
 bringも bringです bringから bringや bringなと 
 bringのん bringだ bringな bringへ bringとして
 bringまで bringだけ bringという bringだった 
 bringでし bringより bringって bringとか bringか 
 bringについて bringなら bringによる bringばかり
 bringじゃ bring等 bringでしょう  bringなんて

bringがどんだけ活用・格変化しとるのか!
スクロールしてこれらを全部やり過ごして、ようやく、
『持ってくる 盛ってくる もってくる 漏ってくる』
というマトモな日本語が候補として表示される。

娘が変なことを学習させたのではないか、と私は疑ったが、
断じてそんなことは無いと言う。
ならば、この携帯に『もっていく』と入れたら、
さぞかし『take』の嵐になるだろう、
と私は期待したのだが、こちらは最初から、
『持っていく 盛っていく もっていく 
漏っていく 保っていく 守っていく』
と出るだけで、極めてつまらなかった。

「こいつの『bring押し』だけは、手間でしようがない」
と娘は苦笑していたが、いやそれ、単純に、
壊れとるんと違うか

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・なぜか今夜は主人も娘も、とても眠いらしい。
夜8時半の段階で、ふたりとも既に就寝体勢に入っている。
私は夕方うたた寝したので(殴)まだ大丈夫だ。

・KISSが来年半ばまでにはニューアルバムを出すらしい。
KISS - New Album Due "Mid-2011"(BW&BK)
録音するのスタジオに入るのとポゴレリチが言っても、
私は文字通りには受けとらないよう、自分に歯止めをかけている部分があるが、
KISS関連の話なら言葉通りに信用していいだろう、と思っている。
前回の『Sonic Boom』が予想を遙かに超える傑作だったので
次回作にも私なりに期待している。
そしてできれば私があまり老いないうちに(汗)来日してくれないだろうか。
KISSの面々はなぜか30年前と全然変わっていないのだが(除:胸毛の白髪化)、
私のほうは変わり果てているので、夏フェスなんかで来られると倒れる。

・宝塚系の某掲示板を久しぶりに覗いたら、
チラシとフライヤーの違いについて話題になっていた。
『フライヤーという語が使えずに未だにチラシと言う人が多いことに驚く』
という意味のことを書いていた人がいたが、
実は私も、自分で使う語は『チラシ』のほうだ(笑)。
『フライヤー』は、私にとって理解語彙ではあるが使用語彙ではない。
言語の変化とは、話し手の使用習慣の変化のことを言うのだから、
日本語話者の大半が『チラシ』全般を『フライヤー』と呼ぶようになれば
私も自然にそう言うようになると思うが、今の私の生活実感としては、
まだそこまで来ていないという気がする。
ピンクフライヤー、折り込みフライヤー、などの言い方はあるのかしらん。

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割と最近まで、私は『どや顔』というのは、
何か『ドヤ街』に関連のある語彙なのだろうと、誤解していた。
響きの点からも『ドヤ街』によく似ているし(笑)、
よもや、関西弁の『どうや!』がこんなところに登場しているとは
考えもしなかったのだ。

そうなのだ。
『どや顔』とは簡単に言えば『得意顔』のことで、
『どうや!と言わんばかりの顔』、『どんなもんだ!と自慢そうな顔』、
くらいのニュアンスだったのだ。

皆様、特にご年配の方々、ご存知でしたか(苦笑)?

これがもし、関西弁を使う人だけが言う言葉だったら、
私だって、なんら違和感はなかったと思うし、
もっと早く誤解が解けていたと思うのだが、
私が最初にこの言葉に触れたとき、使っていた人は、
全然関西人でもなんでもなく、
おそらく本人は日常、「どうや!」などと言うはずもない人だったので、
私には意味が伝わらなかったのだ。

「どうや!」と言わない人が、顔だけは「どや顔」をする、
または他人の得意顔を「どや顔」であると表現する、
……というのは、私にはどうもこうも違和感がある。
「どうや!」が使用語彙でない地域の人たちの場合、
この言葉は「どや顔」であるべきでなく、
「どうだ顔」、もしくはここでの文法に従えば「どだ顔」ではないか(^_^;)。

ああ、いやいや、こういう規範的な考え方は、いけない。
言語学は基本、ありのままを受け止める、記述的なものでなくては(爆)。

「どや顔」が全国的に受け入れられたというのは、
やはり、この言葉でないと表現できないものがあったということだろう。
調べてみると、関西では昔から俗語としては存在していた言い方で、
今のように広まったのは、2007年前後に、
明石家さんま・あるいは松本人志、がテレビで言って以来だ、
ということらしかった。

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娘が期末考査の勉強をしているのだが。

彼女が持っているプリント類には、よく、
「次の語群を適切な順序で並び替えなさい
という指示が書いてある。
私の感覚では、これは「並べ替えなさい」ではないか、
と思うのだが、あっちにもこっちにも出ているので、
おかしいのは私のほうであるようだ。

私の違和感の根拠は、理屈で言うと、
並ぶ」は自動詞で、「並べる」は他動詞だ、
というところにあると思う。
並び替わる」のは、例えば自分が順番をかわるとか、
違う列に並び直すなどの場合なら良いと思うのだが、
対象物を「並び替える」というのは、あるのか。
多分、「並びを替える」から派生した複合語なんだろうけど。

しばらく考えていたが、見れば見るほど
こちらの感覚がおかしくなって来るので、やめた。
どちみち、言語(の使用習慣)は常に変化するのだ。
仮に誤用であったとしても、それを使う人が多数派になれば、
そちらが言葉として定着し、いずれは正統にさえなり得るのだ。

生まれてこのかた日本語話者でありながら、
私は、こうやって日本語の語感に自信のないところがある。
これが外国語などになろうものなら、もう一体全体、
どんな言葉を自分は使っているのだろうか。
第二言語の悲しさで、英語ですら私には大まかな判断しかつかない。

某・純日本企業が社内の公用語を英語にするなどとニュースで聞くと、
そこでは日頃、どんだけ滑稽な世界が展開されていることかと、
つい想像して、愉快になってしまう(逃)。

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先日、青木るえか著『主婦の旅ぐらし』を読んでいたら、
『「夜は左手」ってなんだ?』というページがあった。

白洲次郎が亡くなる直前のことを書いた、夫人の正子の文章に、
「ベッドへ入る前に、看護婦さんが注射しようとして
『白洲さんは右利きですか』と問うと、(次郎は)
『右利きです。でも夜は左……』と答えたが、看護婦さんには通じなかった」
というのがあるのだそうで、青木るえか氏は
「これが私にも通じなかった。夜は左手ってなんのことだ?」
と書かれていた。

私も、『夜は左手』という言い回しは知らなかったが、
特に夜とかけているのだから『晩酌をする』の意味ではないかなと考え、
主人に訊いてみた。そうしたら、
「そだよ?酒飲みのこと『左党(さとう)』っての、あんた知らん?」
と主人はさも意外そうに言った。

そうだったのか(汗)。
いや私は酒は全然、一滴も飲まないので。
って関係ないか。

しかしなぜ「左」であるかについては、諸説あるようだ。
酒好きはなぜ「左党」?
左党の左の意味もとさかや酒店

いやはや、ごろ寝して『主婦の旅ぐらし』を読んだ御陰で、
私は、ひとつ賢くなったことだった(笑)。
簡単な語彙で、実に面白い表現ができるものだと改めてわかった。
『主婦の旅ぐらし』そのものは、平成16年に出ているので、
青木氏も今は既に、『夜は左手』の意味を解明されているかもしれない。

しかし、夜は左手……、だけでなく、私はこの本の御陰で、
もうひとつ、新しいものに興味を持つことになった。
それは白洲次郎を語る箇所で登場した、白洲正子だ。
白洲正子と言ったら、私のイメージでは、昔バブリーだった頃、
能や着物や骨董に目覚めた女の子たちが、喜んで読んだ作家、
……だったのだが、青木氏の定義はそんなものではなかった。
青木氏は、彼女の自伝を絶賛し、推薦なさっているのだ。
家柄バアさん昔語りモノのベスト5の筆頭として(爆)。
また青木氏は、『森茉莉と白洲正子の対決が見たかったのに』
という意味のことも書かれていた。
どちらも自分の生まれに自信満々、美意識にも相当なものがあるが、
その方向が全然違うように思われる、と。

それで私は昨日、買い物のついでに書店に寄り、さっそく、
白洲正子自伝』を買ってきた。
これが今夜から私の、ごろ寝読書の友だ。
白洲正子が、ブっ飛んだ世界をきっと見せてくれる筈だ、
と私は期待している。
これが面白かったら、森茉莉の『父の帽子』も読んでみようかしらん。


後日記:『白洲正子自伝』読後感想は、こちら

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『ベルサイユのばら』のオスカルの台詞のひとつに、
「さらば もろもろの 古き くびきよ」というのがある。
これは原作の劇画にも宝塚の脚本にも登場する言葉であり、
ひとつの「聞かせどころ」みたいなものであることは確かなのだが、
しかし「くびき」と言われて何のことか、普通、わかるだろうか?

原作で問題の箇所が出てくるのは、物語のほとんど終盤、
革命前夜のパリへと、オスカルが向かっていく場面だ。
貴族でありながら、民衆の側について闘うことを決意し、
祖国フランスの新たなる歴史の礎にならんと、
志を同じくするフランス衛兵隊を率いてオスカルは進撃する。
馬上、昂然と顔をあげてオスカルは過ぎ来し方を回顧する。

『さらば!もろもろの 古き くびきよ
二度と もどることのない わたしの部屋よ 父よ 母よ!
さらば王太子殿下 内親王殿下
愛を込めつかえた ロココの女王 うるわしき愛の女神よ
さらば さら…ば…… フェルゼン伯……!』

私はこれを週刊マーガレット連載当時に読んでいたのだが、
小学生だった私には、「くびき」が何なのかわからなかった。
理解語彙でも使用語彙でもなかった。辞書を引いたら
『車の長柄の先に取り付ける横木。牛馬の首にあてる』
などと書いてあり、私にはますます、訳がわからなくなった。
これから命がけの戦闘に身を投じる人が、
どうしてそんなものに、ねんごろに別れを告げるのか。
そんなに名残惜しければ持ってけ、みたいな(爆)。
第一、いくら軍人だからって、
牛車・馬車のパーツと、自分の部屋と両親と並列だなんて。

四十にもなり、多少は語彙力や読解力のついた今ならわかる(^^ゞ。
オスカルは、それまで王室に仕えて来た、貴族としての自分を捨て、
このとき初めて、自由なひとりの市民としての道を選んだ。
そのことで、自分の行動の基準となっていた価値観や思考上の束縛、
すなわち「頸木」から、彼女は解き放たれた訳だが、
同時に、彼女はこれまでの年月を心からいとおしんでもいるのだ。
それらすべてが彼女を育み、築き上げてくれたものであるのだから。
ゆえに、「諸々の古き頸木」に、思いの丈を込めて
最後の別れを告げようとするのだ。

さて、この箇所は、宝塚のベルばらでも登場する。
上演時間の制約もあるから、宝塚では大幅にカットされ

さらば もろもろの 古き くびきよ
二度と戻ることのない わたしの 青春よ!


という二行だけの台詞にまとめられている。
まあ、煎じ詰めればそーゆーことだな、と私は笑ってしまったのだが、
いつぞや、ヅカファンとして大先輩の某P母様が、

「何度聞いても、さらば もろもろの ふくびきよに聞こえる」

と仰って、私は、もうもう死ぬほど笑わせて貰った。
『さらば。諸々の福引きよ!』
あ~、サマージャンボもドリームジャンボもハズレばっかで。
商店街のガラポンどころか、学校のあみだくじですら、
いっぺんも美味しい思いしたことないし。
もーえーわ。これっきりや。サイナラ。なんちって。

で、私はこれがとても気に入ったので、別のヅカ仲間である、
東京在住S嬢にメールを打ったとき、思いついて、
本文とは全然関係なかったが、題名のところに、
『さらば 諸々の福引きよ』
と書いて送ってみた。ヅカファンならウケるだろう、と。

そうしたら。
返ってきたレスの表題が。

二度と戻ることのない わたしの清純よ!

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昨日の日記は、やや誤解を招くものだったかもしれない。
私は、「供」の字に問題意識を感じている人々が存在する、
ということを書きはしたけれども、
私自身がそれに賛成している訳ではないので、
そこのところ、何卒ヨロシク御願い致します(^_^;)。

「供」の字は悪いと主張なさっている方々の嫌悪感に配慮して、
今後、私は場面と相手を見て、私なりの判断を下し、
「子供」と「子ども」を使い分けることはするかもしれないが、
私が、主として私向けに書く文章では(つまりこの日記だ)、
自分の美意識に適う「子供」の表記を、今後も取って行くことにする。
私自身は、自分の生育歴や学習歴の中で培った感覚により、
「子供」の「供」からは『複数』の意をまず感じ取っており、
不適切な文字であるとは全く感じていないので、
これを使うことに、なんら抵抗は無い。

だが、いやしくも言語学をカジった者として私には、
自分の好悪の感情以外に、もうひとつの視点がある。
それは、現代言語学は「記述的」なものである、ということだ。
一昔前の言語学は、規則に照らして、「この言い方は正しい」とか
「その言葉をこの文脈で使うのは誤り」などとする、
ひとつの「規範的」な立場を取っていたけれども、
今や言語学は、言葉の「美しさ」や「正しさ」を追求するのではなく、
ただ、現在の言語がどのようなものであるかを、ありのままに記録し
その体系を解明して行く、という立場のものになっている。

この考えに即して言えば、今後、日本語の語彙として、
「子供」と「子ども」のどちらの表記が基本になるかは、
理念の正当性や、言葉の作法上の問題とは別次元の話で、
簡単に言えば多数決なのだ。
最初のきっかけや根底の価値観がなんであれ、多数派の人々が賛成し、
違和感を覚えなくなったほうの表記が生き残ることになるので、
それが「子ども」のほうだとしたら、私はそれでいいと思うし、
そのような時代が来てもなお「子供」にこだわることは、私はしない。

少し外れるが、「的を射る」という言い方に
ひどく固執する人がときどきあって、
確かに「的を得る」では誤用だという説は理解できるけれども、
「得る」のほうも現在では相当な市民権を得ており、
文脈上の誤解も生じない表現として定着しているのだから、
目をつり上げて指摘して訂正させるほどのものではない、
と私は思っている。

だいたい、現在の我々が使っている日本語だって、
平安時代の発音や語彙から見たら堕落のナレの果てなのではないか。
野放図に乱れ放題で結構とは思わないけれども、
「言語の変化」、すなわち「話し手の使用習慣の変化」というのが、
避けられないものであることは知っているべきだ。

余談だが、相変わらずよく売れている「問題な日本語」が、
例えば若者言葉のおかしな点をいろいろと指摘しつつも、
『将来的にはこんな言い方が定着するかもしれない』、
という傾向の結論になっている箇所が多いのは、
やはり記述的な言語学の立場を取っているからだと思われる。

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私は今日の今日まで知らなかった。
「未成年の人間」のことを「子供」と書いたら差別で、
「子ども」と書くべきである、という価値観が存在するということを。

子供 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

なぜ「子ども」が良くて「子供」は望ましくないかというと、
・「子供」の「供」の字は、「お供」、
 すなわち子供が大人の附隨物であると連想させるため。
・神に奉げる「供え物」の意味につながるため。
・「子供」の「供」は当て字なので、漢字に意味はなく、
 平仮名にすべきである。
などの理由があるから、だそうだ。

私はつい数年前まで教育産業に携わっていたが、
こんな奥深い漢字の知識なんぞ無いもんだから、
へーきで「子供」って書いてたぞ~~
(親御さんたちのことを「父兄」と言うな、「保護者」と書け、
というのは現職の学校の先生から習ったけど。やれやれ・・・)。

私はイデオロギー論争を積極的にしたいとは思わないのだが、
言葉の表記という観点から、ちょっと言いたいことがある。
「子供」は、レッキとしたひとつの名詞なのに、
漢字仮名交じりにされるのは、どうも、私の美意識に反する。
「子供と教育」と書いてくれたら一発でわかるが、
「子どもと教育」だと、『どもと』が一単位に見えて、邪魔なのだ。

そもそも日本語を読むとき、我々は概ね、漢字をメインに読んでいる。
ひとつひとつの単語を等価のものとして見ているのではなく、
漢字で書かれたところが「意味」の中心部分、
仮名で書かれたところは「活用語尾」や「つなぎ」の部分、
という区分けを、無意識のうちに頭の中でしている。
だから、「子供」というひとまとまりの体言を、
わざわざ漢字仮名交じりで分断されると不自然だと私は感じるのだ。

「どもる子どももどもらない子どもも子どものうちは子どもどうしで気にせず遊ぶようだ」
という文など、我々が普段どれほど漢字に依存しているか、
漢字で書く部分が意味の区切りを示す指標としていかに重要か、
よくわかる例ではないだろうか。

まあ、これもひとつの慣れの問題だとは思うので、
世の中から「子供」という表記が姿を消したら、
「子」と見ただけで次は「ども」が続くのだという了解が、
日本語を読み書きする人々の頭の中に出来上がって、
今よりは、たやすく読めるようになるかもしれないけれど。

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