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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



忌野清志郎ファンクラブ会報『どんちゃん画報』100号記念で、
清志郎の描き下ろしイラストつきの携帯クリーナーが来た。
ヒトハタウサギが正装していて、背後のハタには100の文字、
ウサギ本人の両目も「百」の字になっている。

一般に販売されているものならふたつ買うところだが、
ファンクラブの記念品なのでひとつしかなく、
勿体なくて、まだ袋から出せていない。

*************

先日、YouTubeでとても懐かしいものを見つけた。
1985年04月25日 昼TVタモリ(YouTube)

『笑っていいとも』に出演したときの清志郎、23年前だ(O_O)!
時期的には『すべてはオールライト』のシングルレコードが出た頃で、
これでCMにも出演していたものだった。
私はもちろんこのテレフォンショッキングを、
小平の下宿の小さいテレビで観ていた。
大学3年の初めだった筈だが、平日の昼に、
・・・講義は無かったのだろうか(汗)????

電報やメッセージがいずれも、
『よく起きられた。褒めてあげよう』
になっているのは、これの前日、三浦友和氏からの紹介電話のとき
清志郎が完全に寝ぼけていたからだ。
三浦氏が清志郎自宅に電話をしたら、応答した清志郎は、
「・・・また、あとで電話、して、いいよ・・・」
と言い残して、話も何も聞かずに電話を切ってしまったのだった。
コマーシャルの後だったか、なんとか覚醒した清志郎と
再度、電話が繋がって、テレフォン・ショッキングだと説明しても、
「百恵ちゃん、紹介すればいいじゃない」
などと、まだ、しぶっていたものだった。

トークの苦手な清志郎が、どーするんだと思っていたら、
いざ来たら『いいとも~~♪』でビシバシ盛り上がり、
さすがキヨシ!な、友達のワだった。
ギターを持たせれば・歌わせれば、清志郎に怖いものはないのだった。

ちなみに、アンプ係で出て来るのは若き日の、デビュー前の三宅伸治さんだ。
MOJO CLUBを結成したかしてないかくらいの頃ではないかと思う。

清志郎がこのとき紹介した「お友達」は岩崎宏美さんだった。
両者とも事務所を独立したばかりの時期だったため、
「独立仲間は良い仲間」という文句での紹介だった。
清志郎から彼女へのメッセージは、
『またべろべろとなめあいましょう』だった(爆)。

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ときどき、QUEEN関連でメールを下さる方もあるので、
こちらでも、お知らせしてみます。ご存知かも知れませんが、
BS熱中夜話 QUEENナイトが再々放送されます!
12月30日(火)NHK-BS2
13時45分~:フレディ・マーキュリー編
14時30分~:ブライアン、ジョン、ロジャー編

私がどうやってクイーンと出会ったかは、以前書いたが
一時期、私の中で、偉大なる伝説になりかけていた彼らが、
ここ数年再び注目を集め、現在進行形で語られるようになり
ファンとして思いがけず、最近は熱い思いが再燃している。

・・・ということで、今夜は、ちょっとQUEENについて語ってみたい。
『CMで知って面白かったので、クイーンに興味を持った』
というメールを以前、頂いたことがあったが、
クイーンがどんなバンドか、を簡単に説明することは
私にはとても出来そうにないので、
とりあえず今回は、私がファンになりたてだった頃に
自分にとって重要だった曲のことを中心に、書いてみようと思う。
私の話は概して自分本位な昔語りが多いので申し訳ないが、
クイーンをこれから聴いてみたいとお思いになる方にとって、
どこかひとつでも、きっかけになる箇所がありさえすれば、
これ以上の光栄はないと思っている。

***************

私がファンになったとき、QUEENの発売中の最新アルバムは
『華麗なるレース』だった。
今ではQUEENというと『ボヘミアン・ラプソディ』がとても有名だが、
これは『華麗なる~』のひとつ前のアルバム『オペラ座の夜』の曲だ。
この『オペラ座~』と『華麗なる~』の二枚は、
70年代の、豪華絢爛のQUEENが最高の輝きを放った二連作ではないか
と私は今でも思っている。

私がQUEENの頂点の曲のようなイメージで記憶しているのは
この『華麗なるレース』のB面一曲目だった『Somebody to love』だ。
Queen- Somebody to Love(YouTube)
『華麗なるレース』は1976年12月にリリースされているので、
もはや30年以上前の作品ということになる。

Queen/Good Old-Fashioned Lover Boy(YouTube)
Queen - Millionaire Waltz (Live '77)(YouTube)
上記二曲も『華麗なる~』の収録曲で、当時も、そして今も、
私にとって70年代QUEENの象徴のようなナンバーだ。

この段階でファンになった私が、一日千秋の思いで待った次のLPは、
約1年後の1977年10月に発売された『世界に捧ぐ』だった。
ここからQUEENはひとつの転換期を迎え、
前作までの華麗さとは打って変わって、シンプルな音作りを行った。
私は当初、肩すかしを食らったような驚きがあったが、
聴いていると、それまで以上にQUEENの本質的な面白さを知るようになり、
今では、『世界に捧ぐ』もまた私の愛聴盤のひとつになっている。

中でも、ベースのジョン・ディーコンが書いた『Who Nees You?』は
発売当初から私を強く惹きつけた一曲だった。
ジョン・ディーコンはメンバー中、唯一ヴォーカルを取らなかった人で、
年齢的にも最も若く、終始、控えめな存在だったが、
彼の作品はいずれも珠玉のような名曲ばかりだ。
フレディに歌って貰うために曲を書いていたのでと、
彼の死後、ジョン・ディーコンは表舞台に立たなくなった。
Queen-Who Needs You?Tribute to John Deacon(YouTube)

時代的には80年代になるが、全米ナンバーワンとなった
『Another One Bites the Dust』もジョン・ディーコンの作品だった。
QUEENは全員が作曲ができ、皆がヒットナンバーを持っており、
それも彼らの作風を多様化させる要因となっていたことが
今になってみると、本当によくわかる。
Another One Bites The Dust (Queen Live at the Bowl 1982)(YouTube)

『世界に捧ぐ』の収録曲のうち、上記TV番組のQUEENナイトで、
勝山かほる氏が挙げておられる『My Melancholy Blues』も、
私にとって外せない、QUEENベスト5に入る曲だ。
My Melancholy Blues - Queen (Vinyl Recorded)(YouTube)
フレディはエレキ・ピアノなどという軽薄な(爆)ものを嫌い、
ステージでもグランドピアノを弾いていたものだった。
実は私は二十年くらい前、これを弾き語りしてみたことがあった。
若気の至りとはいえ、なんと大胆な試みだったことだろう(大汗)。

もうひとつ、『世界に捧ぐ』の中で私が愛しているのは、
『Sheer Heart Attack』だ。
中学生だった私には、これは早口言葉のように思えたものだった。
今聴いてみたら、歌詞の乗せ方としてはそんなに極端ではない、
と思えるのだが、当時は、とてつもないものを聴いた気がしたのだった。
何であれ、QUEENにはこんなハード・ロック的な一面もあった。
これもまたQUEENならではの魅力だった。
Sheer Heart Attack (Queen on fire live at the Bowl 1982)(YouTube)

ときに、自分の知っているあらゆるジャンルを通じて、
私がこれまでの人生で、容姿の面で最も惚れ込んだ男性は、
80年代初期における、QUEENのロジャー・テイラーだった。
今に至るも、私にとって彼を超えるイイ男は出現していない。
Roger Taylor - Rock Pop - Future Management(YouTube)

勿論、彼はワイルドなドラマーであり、
特徴的なハスキーヴォイスの、魅力あるヴォーカリストであり、
名曲『Radio Ga Ga』の作曲者でもあった。
Queen Radio GaGa Liveaid(YouTube)
もとは歯学部で学んでいたロジャーが、歯科医の道を放棄した理由は、
『一生分の歯を見た』と思ったからだった、というのも
私には忘れられないエピソードのひとつだ。

こうして振り返ってみると、本当に、
QUEENの中には、私の求めるほとんどすべてのものがあった。
フレディが逝ってしまい、彼らが永遠に思い出になったからこそ、
あの頃聴いた音楽と、記憶に残る彼らの姿が、私にとって、
なおいっそう貴重なJewelsになったのだと、改めて、思う。

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今朝、起きてメールチェックしたら、清志郎仲間の某氏から
「ニュースをもう見られましたか?」。
なななんと、清志郎、まだ部分的にだけど(爆)、ついに復活!!!

昨日、ブッカー・T&THE MG'Sのブルーノート東京のライブで、
いきなりスティーブ・クロッパーに紹介され、
清志郎は、飛び入りでステージに上がり2曲歌ったそうだ。
凄い、さすがはBossだ、Godだ、清志郎!!
記事を見ると、その前日の19日には、
THE WHOの武道館ライブを聴きに行ったとも書いてある。
某所に目撃情報があったのは、正しかったのだな。

忌野清志郎が熱唱、復活ののろし(日刊スポーツ)
『左腸骨に転移したがんのため療養中のロック歌手忌野清志郎(57)が20日、都内のブルーノート東京で、復活ののろしを上げる歌を熱唱した。92年にバンドを組んでいた旧友、米国のR&Bバンド、ブッカーT&THE MG'Sのステージに、飛び入りで上がると、米国R&B歌手ウイルソン・ピケットの名曲「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」を歌った。』

清志郎 治療は絶好調♪再び飛び入り熱唱も(Sponichi)
『喉頭(こうとう)がんが腰に転移し、7月から休業中のロック歌手忌野清志郎(57)が20日夜、東京・青山のブルーノート東京を訪れ、スポニチ本紙の取材に「まだ治療中だけど、どんどん良くなってるみたい」と順調に回復していることを告白した。休業後初のインタビューで「曲もいくつか書いている」と説明。ライブにも飛び入りし、またも闘病中にもかかわらずステージで歌った。』『病気の経過について「おかげさまで、どんどん良くなってるみたいで(がん細胞は)小さくなってるみたい」と説明。いまも「週1のペースで通院」しており「放射線治療は終わって次の段階。つらいところもないし、まずはしっかり治してから」。』

清志郎~~~!!
朝から最高だぜYeah!!

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きょう一番嬉しかった記事は、これだ!

どんちゃん画報100号記念インタビュー(地味変)

『どんちゃん画報』というのは、清志郎ファンクラブの会報で、
その100号発行記念としてのインタビューが、ほんの数日前、
11月14日に行われたとのことだ。
で、その写真が公式サイトにUPされていたのだ。
あわせて2009年カレンダーの撮影もあったそうだ。

私は勿論、以前から会員なので、
『清志郎が新しく書き下ろしたイラストの100号記念携帯クリーナー』
が会員には送られてくるという記述にも期待が高まった。
思えば、RCサクセションのファンクラブがなくなって
清志郎単独のファンクラブになって、会報が100冊目か・・・。
実家で探したら第1号から、結構、残っているのではないだろうか。
途中、結婚したり転居したりで途切れた時期もあるのだが、
独身時代のは丹念にファイルしておいたはず。
・・・親に勝手に処分されていなければいいのだが(爆)。

ああ、清志郎の元気そうな様子、相変わらずの笑顔が、
本当に嬉しかったよぅ(涙)。

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清志郎ファンにとって、恩人であり同志とも言えた、
筑紫哲也さんが、7日、亡くなった。
私は思想的には、この方の考えに同調したことはほぼ無いが、
ジャーナリストとしての先駆的な姿勢には敬意を表していたし、
清志郎との長い友情にも、私なりに親しみと感謝を感じていた。

今年3月の清志郎京都公演のときに、「前説」として筑紫さんが、
京都会館第一ホールのステージに立たれたのだが、
あれが私にとって、生で拝見した最後の筑紫さんの姿になった。

アレ誰??筑紫哲也?筑紫哲也だ!と大騒ぎの客席を前に、
帽子を被った筑紫さんは、いつもの調子で、
「前説というのは会場の空気を温めるためにやるんだけど、
もうこんなに盛り上がっている中での前説は、じらす意味もあり」
「宝くじは買わない、というのがありましたが、
宝くじより貴重な、きょうのチケットを手に入れた皆さんに・・・」
「私と清志郎さんとはガン友です」
「メル友ってのはわりと簡単になれると思うんだけど、
『ガン友』ってのはなかなかなれないよ」
「今日の多事争論・・・じゃなかった、前説は、こんなところです!」
等々と語られた。

そのときの声も様子も、全くご病人のようではなく、
私は、この方もまた治癒間近なんだと勝手に思ったものだった。
清志郎も筑紫さんも、一時期は治療のためにお休みをされても、
こうして良くなってちゃんと復帰されて元通りになるんだ、
と私は、目の前の出来事の明るい面だけを見て、
自分本位な納得をして喜んでいた。

清志郎ショック“同士”の死「とても残念」(スポニチ)
『突然の訃報に驚いています。
共に病気と闘っているという仲間意識があったのでとても残念です』
『長い間お疲れさまでした。ゆっくり休んでください』
『あのやわらかな笑顔が忘れられません。ありがとうございました』

療養中である清志郎の動静は、このところ報道されなかったが、
久々に見ることのできた現在の彼の言葉が、
筑紫さんへの追悼になろうとは、
3月の京都会館のときには、誰も予想もしていなかったと思う。
今は、ただ、筑紫さんのご冥福を、心からお祈り申し上げたい。

****************

筑紫哲也さんは、元ヘビースモーカーだったそうで、
かつては一日三箱を喫うペースだったと記事に書いてあった。
私は全くタバコに縁がないので、ヒト箱何本なのか知らず、
検索してわかった、一箱20本だった(苦笑)。
だから三箱なら毎日60本ほどだったということだ。

喫煙が各種癌の原因になるということは誰でも知っているし、
とりわけ肺ガンの発症と喫煙本数には密接な関係があると
以前から報道されており、どんな庶民でも知っている。
ジャーナリストだった筑紫さんがそれらに対して無知だった、
とは全く考えられない。
「リスクも何もかも承知の上だったろうよ」
と主人は言った。

だが、私は、ふとここで『そうだろうか?』と思った。
かつてやはり毎日三箱は消費していた舅は、
食道ガンの手術を終えたとき、しみじみと、
「若い頃は仕事が忙しかったし、よぅ外食しては、
脂っこい焼肉やなんか、よけい食いよった。
あれがガンの原因になったかのぅ」
と、煙草を次々と喫いながら、真面目に反省していたものだ。

おとーさま、それはこの際、取るに足りないことだったのでは、
と私は内心思った。言わなかったけど。
知識と実感なんて、このくらいには乖離できるものよ(苦笑)。

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10月30日の晩、広島ALSOKホールで、
美輪明宏の濃密な舞台を三時間、堪能させて貰った。

音楽も、衣装も、演出も、舞台美術も、音響も、照明も、何もかも、
アーティスト美輪明宏の美意識が貫かれたステージだった。
美輪様のお話に深く考えさせられ、たくさんのヒントを頂き、
美輪様の歌に何もかも忘れさせられ、魅了され、
そして、美輪様の大きな「愛」に包まれて、満たされた。

・・・と書くと、『お前アホか新興宗教か!』と
何もご存知ない方からはきっと言われると思う。
でもあの世界に共感を覚えた方ならば、わかって下さるだろう。
美輪様がステージから会場全体に向かって発していらしたオーラ、
「気」の大きな流れのようなものが、確かにあって、
それが舞台の進行に連れてゆっくりと確実に広がっていき、
最後には会場のすみずみまでを満たしたのだ。

今日の美輪様人気は、それがわかる・感じられるという人が、
少数ではないことの証しだと私は思っている。
これ以外に、どうも書きようがない気が、今はしている。
美輪明宏が気になる、と仰る方は、テレビだけで結論を出さずに、
是非、生の舞台をご覧になってみて下さい、と申し上げたい。

「私は、強く生まれついておりますので」
と美輪様がさりげなく仰ったのが、私はとても印象に残った。
これまでの人生やアーティストとしてのキャリアが、
波瀾万丈のものであったことは少し調べればわかるが、
それらに負けないどころか、年々大きな存在となられたのは、
その天与の「強さ」が根底で大きな力を発揮したからだと私は思った。

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NHK「SONGS」に美輪様がご出演になったので、観た
(こういうときだけは、テレビというものを、
本当に有り難く思う、身勝手な、わたし)。

美輪明宏 第一夜:「命」
砂漠の青春 / ヨイトマケの唄 / 花~すべての人の心に花を~
(ご覧になれなかった方も、再放送があります。番組サイトをご参照下さい。
また、来週は続きの、「美輪明宏 第二夜」が放送されます。)


美輪明宏を私が初めて生で聴いたのは、多分、91年か92年なのだが、
そのときは、この人が骨の髄まで本物のアーティストであることに
非常に強い感銘を受け、歌でこういう表現ができるものだったのかと
別世界を観た思いがした。
当時は、確か第一部が「丸山明宏」、第二部が「美輪明宏」で、
第一部では、ごく地味な黒っぽい服装で、
様々な年齢の男女を曲ごとに衣装もセットもなく一人で歌い分け、
演技者としての丸山明宏の面目躍如と言った内容だった。
第二部は一転して、妖艶なドレスに身を包んだ豪奢な美輪明宏で、
開口一番、「さきほどの丸山明宏の、母でございます」
と優雅にお辞儀をなさったので、客席が大いに沸いたものだった。
第二部のほうは、シャンソンの神髄を聴かせる内容だったと思う。

あのときから、『黒蜥蜴』の舞台は複数回拝見したけれども、
音楽会は全く機会がなく、今月30日の広島公演があれ以来の二度目だ。
「SONGS」の美輪様は、昔の私の記憶にあった美輪明宏よりも、
もっとずっと大きく、文字通り「愛」にあふれた存在だった。
番組の最後にリサイタル仕立ての演出で披露された『花』など、
もう本当に菩薩様のような深さ大きさだったと思った。

10月30日の音楽会<愛>、私は正気で聴けるか、心配になってきた。
美輪様、凄すぎです。

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BE-PAL 11月号を買った。
清志郎イラストによるグリーン風呂敷が付録で付いていて、
『今、清志郎に会えるのはBE-PALだけだぜぃ!』
というコピーにもとても心惹かれ、即買いした。

誌面は、2003年に伊香保温泉でくつろいだときの、
清志郎の後ろ頭の写真と、見開きのカラーページ、
それに、忌野清志郎バンドのバンマス三宅(伸治)さんが、
清志郎にかわって、グリーン風呂敷の使い方を紹介する、
「風呂敷王子指南『風呂敷達人』養成講座!!」6ページ。

凄く楽しい写真がいっぱいで、
三宅さんがとても頑張ってくれているのが、嬉しかった。
私は、ファン歴だけは長くなってしまったので、
思い返せば、三宅さんが清志郎のボーヤ(運転手兼付き人)
だった頃から、御名前だけは存じ上げておりまして、
その後にMOJO CLUBで活躍なさっていたのも、
幾度か拝見しております<(_ _)>。
MOJOのデビュー曲『BACKしよう』、ワタシ歌えます(爆)。

・・・のは良いのだが、毎度毎度、同じテツを踏むのが私、
なんで二冊買っておかなかったんだろう!シマッタ!!
保存用がないと、もったいなくて風呂敷を袋から出せないよ~(泣)。

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ネットで知った情報によると、FLASH最新号に、
忌野清志郎の写真が3ページ載っているそうだ。
近況とか療養の様子に関するものではないが、
80年代以降の貴重写真だそうで、
写真集『清志郎』を撮影なさった岡部 好氏の写真だということなので、
かなり、楽しみだ。

清志郎以外のページは、ロト6がどうのこうのとか、
ヘア解禁されちゃった吉野公佳ちゃんがどうしたこうした、
某氏がかつて長崎のタウン誌で水着姿で「だっちゅ~の」、
等々の内容だそうで、一読した後は「ころもん」に進呈しよう。

FLASH最新号(光文社)

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思いついて、ヒルビリー・バップスの曲が何か新しく
YouTubeにUpされていないかなと思って検索してみたら、
前には見たことのなかった、テレビ・クリップの、
『真夜中をつっぱしれ』があった。
何度聴いても、これは本当に名曲だと思う。
ロカビリーを、これほどのセンスとインパクトを持って、
演奏したバンドは、ちょっとなかなか見当たらないだろう。

HILLBILLY BOPS 真夜中をつっぱしれ<tv clip>(YouTube)

で、見て、本当に今更気づいて驚いたのだが、
これって、作曲者が「肝沢幅二」
「肝沢幅一」は清志郎のペンネームなのだが、
「肝沢幅二」も清志郎ですか??
それとも肝沢ナンバー2は別の人???

調べてみると、杏子の『二十歳のままで・・・』とか、
元ちとせの曲もいろいろと「肝沢幅二」が作曲しているようなのだが、
このあたり、清志郎の活動範囲なんだろうか?
曲想も、これってイマーノ先生なのかな???と、
ちょっと首をかしげてしまうところが、あるのだが・・・。

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