本来なら清志郎が野音で公演するはずだった9月6日に、
有志の清志郎ファンが東京某所に集まって、
千羽鶴作成と復活前祝いイベントを行うことになっている
(mixi会員の方は、詳細についてはmixi『忌野清志郎 RCサクセション』の
イベント『千羽鶴と復活前祝イベント「ラッキー夢助ナイト」』を
参照して頂ければと思います)。
実は、私は長い間、千羽鶴というものが好きでなかった。
平和公園が身近にあって、あまりにも見過ぎたせいかもしれない。
ダルそうな修学旅行生が千羽鶴を抱えている姿を見るにつけ、
広島には、とりあえず折り紙さえして来れば格好がつくと思ってないか?
と溜息をつきたい気分が、私には、あった。
病気や怪我のお見舞いとして贈る千羽鶴にしても、
入院となると、条件反射のように鶴を折り始めるみたいで、
私はどうも、純粋に好意的な気持ちを持つことが、できなかった。
行為としての形骸化や、贈る側の瞬間的な自己満足しか、
当時の私には感じられなかったのだと思う。
しかし、清志郎の完全復活武道館公演の映像を見たとき、
私の考えは、不意に、変わった。
オマエ清志郎絡みだと簡単に宗旨替えするんだな、
と嗤われるのは承知の上で、正直に言う。
復活したときの清志郎の姿を見て、私は初めて理解したのだ。
形骸化して見えようが何だろうが、
ファンの思いは千羽鶴のかたちを借りて清志郎に届けられ、
そして清志郎はそれに、確かに応えようとしたのだと。
それは武道館公演の一回目のアンコールのときだった。
『よォーこそ』のイントロに迎えられて登場した清志郎は、
衣装のハデなマントの上に、レイのようにした千羽鶴を、
前にも後ろにも袖口にも、縦横無尽に、たくさんたくさん、つけていた。
ファン有志から贈られた、数え切れないほどの折り鶴だった。
そしてそれには、『エール100%』と書いたタグがつけられていたのだ。
ステージでは滅多に客に頭を下げることのない清志郎からの、
それは、まぎれもない、真摯な返礼だった。
某掲示板で、清志郎の回復を願うファンの言葉の間に、
「祈ったくらいでガンがなおるのかよ」
という否定的なコメントがあったが、
祈るというのは、実際的な利益を得るためにするような、
簡単な行為ではない、と私は思う。
決して、『なおる』という見返りを手に入れるために祈るとか、
なおらないなら無駄だから祈らない、というものではないのだ。
mixiでこの千羽鶴のイベントが告知されて以来、
全国の見知らぬ人同士が、参加表明をし、また、
当日の会場として予定されている某会館の職員さん達からも、
「私たちも折っていいでしょうか?」
という問い合わせがあったということだ。
私も、なんらかのかたちで、このイベントに協力できれば、
と今、思っている。
人の思いは、決して目に見えるものではないが、
清志郎の回復を祈ることだけを共有する人たちが集まって、
知恵を出し合い力を合わせて、千羽鶴を折るという行為には、
確かに、『ブ熱い』(by清志郎)何かが、宿っていると思うのだ。
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