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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ふとしたことで先日、佐藤愛子『私の遺言』を読んだら、
面白くて仕方なくなり、『冥途のお客』と小説『耳の中の声』を読み返し、
本屋でエッセイ『我が老後』を見かけたので買ってコレも読んだ。
そうしたらもう止まらなくなって、今『我が老後』シリーズに夢中だ。
持っていなかった巻を全部、さきほどamazonで大人買いしてしまった。

佐藤愛子との出会いは、私が高校生だったときのことで、
『愛子の日めくり総まくり』を読んだのが切っ掛けだった。
それの前に、遠藤周作の小説や随筆をしばらく読んだ時期があって、
その中に登場する豪快で愉快な愛子先生が私にはとても強烈で、
そんなとき、良いタイミングで報知新聞連載エッセイが
『愛子の日めくり総まくり』という単行本になったので買ったのだ。

愛子先生は本当にいつだって元気イッパイだ。
「憤怒」が生きるエネルギー、と御自身でも書かれている通り、
「なんだこれは!」「けしからん!」「何を言う!」
と周囲の現象に対して怒りがムクムクと頭をもたげるとき、
愛子先生の筆は冴え渡り、愛子節が炸裂する。

そこへ持ってきて、クールで辛辣な娘さんの味わいも、たまらない。
以前、佐藤愛子がテレビ出演したときに、娘さんもインタビューされ、
「お母さんをどう思っていますか」と訊ねられて、
「困った人だと思っています」と答えた、
という逸話は、とりわけ私のお気に入りだ。

16歳だった私が今や45歳、愛子先生はご健在だ。
プロフィールに大正12年生まれとあるから、
昭和4年生まれのうちの母より、さらに6歳お姉さんだ。
これも私が忘れられない、愛子先生の言葉なのだが、
『佐藤愛子、まだ生きているのかい!』、
『あの佐藤愛子でも死ぬのかい!』、
言われるとしたら後者を選ぶ、とのことだった。
現在までのところ私はまだ、どちらも口にしていない(笑)。
ありがたいことだ。

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5月の後半に風邪をひいてから、あまり活動的でなかったので、
そのぶん、家でごろごろして本を読むことができた。

1.『坂東玉三郎 歌舞伎座立女形への道』中川右介(幻冬舎新書)
2.『病気が変えた日本の歴史』篠田達明(NHK出版)
3.『10秒の壁』小川勝(集英社新書)
4.『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』中野京子(光文社新書)
5.『耳の中の声』佐藤愛子(中央公論社)
6.『私の遺言』佐藤愛子(新潮文庫)
7.『大衆食堂の人々』呉智英(双葉文庫)

5と7は以前にも読んだのを、このほど思い出して読み直した。
2と3と4は主人の本棚から失敬して来たもの。
呉先生の本は読み出すと止まらないので、
今月はこのあと、呉智英・月間になりそうな予感(笑)。

***************

一番面白かったのは、最初に書いた『坂東玉三郎』だった。
私にとって玉三郎というのは、「本流」ではない人、
というイメージが長らくあった。
彼の芸術、とくに舞踊の素晴らしさは私も感じていて、
あの、静謐な一瞬一瞬を丁寧に重ねていく凄みは、
ほかでは味わえないものだと、80年代から思っていた。
だから「綺麗なだけ」だなどと軽く考えたことは全く一度もなかったが、
かと言って、例えば私の長年の贔屓の尾上菊五郎と、
同じ次元で語れる役者だとも考えられなかった。
どちらが上とか下とかではなく、所属する流派が別という気がしていた。

それと同時に、日頃歌舞伎など「退屈」と言って話も聞かない人に限って、
「でも、新橋演舞場の孝玉(当時の孝夫・玉三郎コンビ)だけは観たい!」
などと言うので、私には昔から、なんとなくイヤな気分があった。
そして私の周囲に限って言えば、児太郎(現・福助)の美しさや、
勘九郎(現・勘三郎)の楽しさに惹かれて歌舞伎を見始めた人は
すぐさま、その他の歌舞伎の舞台も幅広く観るようになるのに、
孝玉コンビが入り口だった人は、いつまでも孝玉中心にしか観ず、
孝玉孝玉、と彼らの話しかしなかった。
そのことも、私には不可解であり、微かに不愉快でもあった。

こうした、私の長年の「引っかかり」「わだかまり」が何であったのかが、
この『坂東玉三郎 歌舞伎座立女形への道』を読んで、わかった。
80年代に私の観劇仲間だった、二世代近く上の年齢の人たちが
なぜ、玉三郎と歌右衛門の関係を特異な目で見ていたのか、
そのあたりのニュアンスも、この本を読むことで確認できた。
いずれ、改めて感想を書きたいと思っている。

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昨夜は、萩原朔美・著『死んだら何を書いてもいいわ
―母・萩原葉子との百八十六日
』を読んだ。

私が萩原葉子を知ったのは、『蕁麻の家』を読んだときで、
自分が中学2年生だった記憶があるから1978年のことだと思う。
私は当時これを自分で買ったのではなく、母の本棚から失敬したのだが、
『蕁麻の家』は76年に出ているので、多分、母は、
話題作だというので出版されてすぐ買っていたのだろう。

詩人萩原朔太郎の長女として生まれた葉子は、8歳の時両親が離婚、
朔太郎の母の家で育てられるが、その日常は被虐待の連続であったようだ。
『蕁麻の家』は小説形式で、登場人物には皆、仮名が与えられてはいるが、
内容は自伝であり、萩原葉子の実体験を綴ったものと言われている。
著者が、当時一族で権勢をふるっていた祖母から心身を虐待され、
想像を超える挫折と屈折の少女時代を送った様子が克明に描かれている。

一読して私は、こんな時代・こんな家庭があったのか!と衝撃を受けたが、
それと同時に、朔太郎の娘に文章が書けるという可能性を、
この家の祖母や叔母たちは一度も考えなかったのか?
ということも、子供心に不思議に思った。
目の前にいるのは無力な小娘だからと、侮って虐めていたのだろうが、
成長して筆の力を得たら、こういう本を世に出す可能性があったのだ。
朔太郎の血を受けた娘だということ、
その彼女がいずれ大人になれば黙ってはいないだろうということを、
彼らはなぜ忘れていたのだろう。

この本があまりに印象的だったので、私はその後は、
『木馬館』『花笑み』『天上の花』『閉ざされた庭』などが
文庫になるのを待っては、自分で買った。
著者が様々な辛酸をなめ、不遇な結婚生活を送り、
それでも向学心を持ち続け、自立の道を探ったことが読み取れ、
時代や価値観は異なっても、女性としての共感があった。

しかし一方で、読者としての私は、徐々に成長し、
良くも悪くも、客観的に読むことを試みるようになっていたので、
80年代半ばくらいからは、記述を単に事実として受け入れることをせず、
私小説であっても、意識的・無意識的な脚色は入っている筈だ、
と考えるようになっていた。
それは書き手にとっては真実の一端なのだろうから、
「歪曲」と非難する気持ちは私には全くなかったけれども、
ほかの関係者が同じ出来事を語れば、きっと内容は違うだろう、
ということを、私はしばしば想像するようになったのだ。

そのことが、今回の萩原朔美氏の文章の中でも触れられていた。
朔美氏は、母親に我が儘を言い反抗した思い出が多々あったことを書かれ、
自分は常に葉子を悩ませた親不孝者であったのに、
小説の中の「息子」である自分は、一貫して、
親思いの素直な子として描かれていると指摘なさっている。
『(葉子の小説では)悪者は夫と、祖母と伯母と実母である。
自分の父親と子供はどこまでも美化される。
母親は、自分の作品の中では、子供は善玉と決めていたのだろう。
あるいは、自分のせいで片親にしてしまった(=戦後に離婚したので)
という負い目を感じていたのかもしれない』。

『閉ざされた庭』には、引っ越した新居での第一夜の夕食で、
ささいなことから夫が癇癪を起こし、食卓をひっくり返し、
うろたえる妻の前で、怒りにまかせて一枚残らず皿を割った、
という逸話が出て来る。
この夫は、常に短気で暴力を振るい、妻の誠意を踏みにじり、
家庭の幸福を叩き壊した男として描かれている。
しかし朔美氏の記憶ではテーブルは作り付けでひっくり返せなかったし、
皿を見境無く割れるような経済的余裕もなかった、ということで、
夫婦の諍いが激しかったことはともかくとしても、食卓の描写は
「あまりにもオーバーだ」とクールに葉子の脚色を指摘なさっている。

それにしても、葉子がこうして筆の力を尽くして造形した、
この非人間的な夫というのが、朔美氏の父親なのだから凄まじい話だ。
朔美氏は、「ここまで書いていいのかしら、という感じである」
と突き放した調子だが、夫を完膚無きまでに否定するということは、
息子にとってのたった一人の父親を、自分の筆で破壊することだ。
葉子はそれでも、書いて書いて自分を吐露するほかなかった。
書くということ、とくに私小説を手がけるということは、
周囲の人間も自分をも、傷つけずにはおかない、無惨な行為なのだ。

葉子の書くことの原動力は、父・朔太郎の存在だった。
朔美氏は、夫婦仲が悪く夫を憎悪することになったのも、
葉子が、記憶の中の亡き父を、目の前の夫の中に求め、
失望を繰り返したからだと看破されている。
イメージの中の理想像と、現実の男性とでは勝負にならない。
朔太郎から自由になることのなかった葉子の離婚は必然だった。

朔美氏は本文中で、葉子が「私が死んだら何を書いてもいいわよ」
と言い残したことに触れ、しかし今まさにそうなってみると、
何を書いてよいかわからない・何も書けない、
という気持ちだと述べられている。
そのことは読者としての私の感触にも、少しあって、
本書を読みながら、私が本当に知りたかった萩原葉子の素顔は、
ここにはあまり書かれていないような、もどかしい気分が幾度かあった。
しかし同時に、それはそれで、朔美氏と葉子の距離感や、
親の死後に「不在の感覚」を味わう息子としての朔美氏の立ち位置が、
言外に想像されるところでもあって、
葉子の著作には描かれなかった部分を補うのには十分だったと思った。

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著者の真島久美子さんは、私より少し年齢が上で、
ライフサイクルの点で、いつも数年先を行かれているので、
書かれる本も、私の現在進行形の体験に近いテーマのものが多い。
私が結婚する前に『お見合いの達人』を出版されたのを皮切りに、
私の新婚時代には『結婚の達人』『結婚、見つけた!』、
私の育児時代には『たたかう!落ちこぼれママ』を、そして近年は、
『兄弟は他人の始まり――介護で壊れ行く家族』を書かれている。

文章から察するに、この方は非常にストレートな考え方をなさっていて、
私自身は、もしお友達だったら、やや、苦手なタイプかもしれない、
という気がするのだが、反面、直球勝負の本音が書かれている文章は、
わかりやすく、読み手を惹きつけるものだとも感じている。
同意するにしても反発を覚えるにしても、真島氏の本は、
最後まで読者を離さず、話を聞かせてしまう「力」があると思うのだ。

今回は、そんな真島氏の本として、やはり我が家にも無関係ではない、
やっぱり公立!それでも私立?』というのを読んでみた。
お嬢さん二人の教育の問題は、この世代としては当然のことながら、
重要なテーマだし、内容的にも、私たちが日頃思い迷う部分、
――ゆとり教育の導入以来、公立で大丈夫なのか、私立は本当に良いのか?
というところに触れていて、タイムリーなものだったからだ。

例によって真島氏特有の、ぐいぐい引っ張る展開で一気に読ませて貰ったが、
内容的には、正直なところ、私には全面的に同意できるとは言えないものだった。
我田引水の箇所が多いのではないか、という気がしたからだ。
結論としていずれも公立中学に進むことになった二人のお嬢さんの、
それぞれの現状に、母親としての真島氏は肯定的であり、
よく言われるように「入学した学校が、結局、その子に最適の学校」
という話として読めば、とても納得感はあると思った。
しかし、それを一足飛びに、「公立か私立か?やっぱり公立!」という、
進学問題全般の結論として位置づけるには、取材範囲が狭いと思うし、
都合の良い具体例や証言のみの引用、という印象も拭えなかった。

上のお嬢さんは中学受験を敢えてせず、公立中学から都立日比谷高校、
下のお嬢さんは中学受験に失敗した結果として、公立中学へ進学、
それらの体験を通してわかったことは、
・大手塾は生徒ひとりひとりをカバーできないので問題が多い、
・私立中学高校に進んでも、満足している人は全体の二割、
・同程度の偏差値の高校を較べると、大学進学実績も私立より都立が上、
・大事なのは教科書中心の勉強、公立学校のスタイルが本来である、
等々であると、真島氏はこの本の中で書かれている。

それらの根拠となっているのは、友人知人の範囲のママ仲間の証言や、
娘さんを通して知ることとなった塾の先生のご意見だ。
一面の真理はあると思うし、私も自分が公立出なので、
真島氏の主張は理解できる部分が少なくないが、
それでも、一般論とするには強引な展開だというのが私の印象だった。
また、都立と私立の進学実績を、在籍者数や受験者数を見ないで、
単純に「合格者数」で比較しているのも、やや乱暴だという気がしたし、
同次元の「個人の体験」という話でなら、我が家の娘を通して見た、
私立の実態は、この本に書かれているものと、かなり違うとも言えた。

上のお嬢さんは、真面目で自己管理ができ、成績も良いようなので、
もし中学受験していたら「トップ校」に合格したかもしれない。
そこでの6年間が有意義で、更に成績が伸びたなら、きっと真島氏は、
「公立では望むべくもない教育環境」と絶賛なさったことだろう。
また、下のお嬢さんの場合、勉強はさほど得意でないようだが、
中学受験では、「作戦ミス」のせいで勿体ないことになった面が、
どうもあったと思うので、もしもっとうまくやっていれば、
第一志望でなくとも、どこか希望校に合格できただろう。
そうなっていたら、高校入試のない6年間の過ごし方に、
「教科書一辺倒でない、本人に合ったユニークな教育は私学ならでは」
と真島氏も満足なさったかもしれない。
であれば、その場合この本の題は『やっぱり私立!』だったのではなかろうか、
……などと、読みながら、ついパラレルワールドを想像してしまった。

当たり前のことだが、公立にも私立にもピンからキリまであり、
そこに子供ひとりひとりの個性の問題や、親の理想が絡むと、
どちらが良いなどと一概には決められないものだと思う。
また、二つ以上の学校に同時に在籍して比較検討することは不可能で、
受験体験談は最終的には、結果に対する満足度で語られることになるので、
行った学校が本人にとって楽しければ、
「なんと言っても公立は良い」「やはり私立を選んで正解」
のいずれの結論も、容易に導けるものだと私は思っている。

しかし、公立私立に関係なく、子供の入学した学校に親も満足し、
子供の選択を肯定できる、というのはとても良いことだ。
その意味で、真島氏のスタンスは娘さんたちを勇気づけるものであるし、
母親としての、あり得べき姿だとも思う。

また、今回の内容には直接関係ないが、
これまで、真島氏の著作を複数読んできた感想として、
この時期には、弟さんの独立の問題で悩んでいらしたのだ、とか、
こんな大変なときに、同時にご実家では介護問題があったのだ、などと、
一冊の本には直接書かれていない、周辺の出来事もいろいろと思い出され、
真島氏が複数の悩み事を抱えながら、果敢に乗り切って来られた年月に、
改めて、思い至ったりもした。
多くの場面で、頼る人も少なく、おひとりでことに当たられ、
さらに文筆活動も続けて来られたバイタリティに、
心から、敬意を表したいと思う。

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白洲正子自伝』を読んで、彼女の特異な感性に大いに心惹かれたので、
今度は、近しい方の目を通して描かれた白洲正子を知りたいと思い、
次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家』 (新潮文庫) を買ってきた。
この本は、次郎と正子の長女である牧山桂子さんが書かれたものだ。

詳しいことを含めた感想は、また機会があれば書きたいと思っているが、
とにかくこの本を読んだ御陰で、私は、ある意味、想像していた通り、
白洲夫妻がかなり変わったご夫婦であったことが、よくわかった。
互いに非凡な能力を発揮して活躍した次郎と正子は、
生活者としてもまた、良くも悪くも、平凡とは懸け離れた人たちであり、
娘さんは容赦なく、しかし深い愛情を込めて、
その、どこまでも規格外であった次郎と正子の思い出を綴っていらした。

桂子さんが3歳のときに、正子は最初の本『お能』を出したので、
記憶の中の、母としての正子は、いつも家で原稿を書いていて、
家事などしたことがなく、子供が病気でも自分の用があれば出かけるなど、
子供のことは構わずに、自分の世界を大切にしている人だった。
白洲家には長年、正子の「おつき」の女性がいてくれたが、
時代とともに住み込みの家政婦さんを頼むことも難しくなり、
しまいには、桂子さんが次郎や正子の食事の世話をするほどになった。

後年、正子は、桂子さんの生んだ赤ん坊を抱きながら、
世の中の非行少年のことを話題にして、
『あれは育てた親が悪い』
『あんたもしっかりしないと、この子もああなる』
『自動車の運転免許より子供を生む免許が要る』
などと言ったのだそうで、桂子さんは
『母がその試験を受けたら落ちるに違いない』と内心思ったが、
さすがに気の毒で言えなかった、と書かれていた。

・・・という話をしていたら、我が娘が言った。
おかーちゃんでも、御飯くらい作ってくれるのにねえ

道楽者で痴れ者の私は、一歩間違えば、御飯を作らなくなりそうだ、
・・・という気配を、娘は、感じているらしい。
だが、残念ながら、私は正子のような感性のきらめきを持たないので、
そうなったら、文字通り、遊び人の居候になるだけだ。

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今時は「格差社会」であるし、ここに書かれた彼女の境遇を読めば、
「けっ」と思う人は、普通に、多いのではあるまいか。
カバー写真からして、宮中大礼服に身を包んだ樺山資紀伯爵と、
その腕に抱かれた孫娘、つまり幼稚園時代の正子だ。
生まれたときから「おつき」の女性にかしづかれ、
「供待ち部屋」が当然のように設けられている学校に通って正子は育った。
大正初期、父親が初めて買った自動車は、7人乗りのキャデラック。
別荘には、若き日の昭和天皇がお見えになったし、
秩父宮妃節子さまとは幼馴染みで大の親友。

正子14歳のとき、父親がワシントンに行き国務長官にかけあい、
移民法の枠を越えての留学、ニュージャージーの学校で四年間を過ごす。
18歳で帰国した後、することは何もなく社交界でパーティやダンスに明け暮れ、
ついには飽きて「もっと面白いことがある筈だ」と考える毎日。
19歳で白洲次郎と結婚してからも、変わらず「おつき」の女性が一緒で、
出産した三人の子供たちも責任を持って育てて貰うことができたので、
正子本人は、能の稽古に熱中し、骨董に魅せられ、『文士』たちと飲み歩き、
毎年一定期間は、夫の仕事について行ってヨーロッパで過ごす日々だった。
『私ほど糠味噌くさくない奥さんはいないと、珍しがられることもあるが』
って、いくらなんでもそれは当然です(爆)。

しかし、白洲正子は、単に恵まれていたから非凡な人間になり得た、
のではないと思う。
確かに、彼女の発想や審美眼をかたちづくったものの基盤には、
彼女に最初から与えられていた、贅沢な境遇があったことは間違いない。
能や古典に関する素養や、欧米の文化に早くから触れた体験、
要人たちとの幅広い交友関係、等々は、
家庭の地位の高さと財力の大きさゆえに得られたものであり、
それらが正子を磨き、彼女に独特の視点を与えたことは確かだろう。

だが、それでは、誰でも同じ境遇に暮らしていたら、
正子と同じように鋭い審美眼を養い、
彼女と同等の書き手になることが、たやすくできるものだろうか?
私は、それは違うと思う。
むしろ『猫に小判』で終わる例のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。
環境が整っていた上に、受け手である正子本人の側に、
持って生まれた非凡な感性と知的能力が備わっていたからこそ、
『白洲正子』たりえたのだと、私はこの本を読んで強く思った。

例えば、少女時代の正子は、香道に打ち込む母親の姿に
ある種の嫌悪感を抱くのだが、
それは香道の様式に対して、ありがちな違和感を持ったのではなく、
ましてや香道にのめり込んでばかりで家族をないがしろにして、
などという憤りがあったのでもなくて、母親の姿の中に、
『香りの向こう側に、この世のものならぬ声を聞いている』、
という心の闇を感じ取ったからだった。
『ご存知の通り、香は、「嗅ぐ」と言わずに「聞く」という』、
母親は香に包まれて『神の声を聞いたかもしれないし、
天上の音楽に耳を澄ますこともあったであろう』、
と正子は書いている。
その孤独な耽溺の異常さを、少女の正子は感じ、母親を哀れに思う。

また、正子が能に魅せられるようになったきっかけの話も興味深い。
それは幼稚園時代のことで、靖国神社の奉納能を観る機会があり、
最初、正子はそれが何なのか、当然、全くわからず、
その気がないまま、ただ妙に引き入れられる舞台だと思って眺めていた。
と、そこで偶然に、停電が起こった。
暗闇の舞台の上では何事もなかったように音楽が続いており、
やがて舞台の四隅と橋掛に紙燭がともされた。

幼い正子は、そこに出現した世界に魂を奪われた。
異境のように浮かび上がった舞台、僅かな角度でも表情を変える面。
その面が上を見上げれば、正子には、視線の彼方の空に月が昇るのが見え、
下を向くと、足下の砂浜に波が打ち寄せて来るのがわかった。
演目は『猩猩』であったことを後に正子は知るのだが、
このときの鮮烈な印象が、彼女を能の世界に引き入れることになったのだ。

白州正子という人は、才能と境遇の両方に恵まれた、
希有な存在であったのだと思う。
このように才気煥発な、選ばれた人間であった彼女が、
梅若六郎の薫陶を受けて能を学び、細川護立の手ほどきで古美術に触れ、
七代目幸四郎や五代目歌右衛門、黒田清輝、
またハイフェッツやクライスラー、ラフマニノフなどという、
伝説的な人々の名演や芸術作品に直接触れて育ったことは、
まさに得難い幸運であったのだ。

特権階級によって芸術が育まれ、それが世に多大な貢献をするという、
貴重な例のひとつを、私は白州正子の中に見たと思った。

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先月、リカちゃん展を見に行ったことで、懐かしくなり、
『想い出のリカちゃん』(タケヤマ・ノリヤ編)という本を買ってみた。
初代リカちゃん・二代目リカちゃんを中心に、
当時販売されていた人形たちや、お洋服、ハウス、家具、
等々を写真と文章で紹介した本だ。
まさに私が遊んだアイテムが、カタログの再現を交えて掲載されており、
懐古趣味に浸ると同時に、新たな発見もあり、とても面白かった。

リカちゃんは、女の子から見て素敵な存在でなくてはならないから、
ファッションも行動パターンも、その当時の流行や憧れが、
ふんだんに取り入れられた設定になっていたことを改めて知った。
例えば、リカちゃんの、ある自己紹介の文章は次のようになっている。

『私の名前は、「香山リカ」。おしゃれ大好き。
ママのデザインしたステキなお洋服をたくさん持っています。
(中略)そしてみんなと同じように、絵を描いたり、
歌を唄ったり、ゴーゴーを踊ったりして遊んでいます』

そういえば、『アタックNo.1』の鮎原こずえも、
裏山の八幡様で仲間と一緒にゴーゴーを踊っていたものだが、
平成の今となっては、これはかなりシュールな遊びだな。

また、リカちゃんたちは、小学生ながらバンドを組んでいた。
『うたうわたるくん、えんそうするリカちゃんといづみちゃん』
という構成で、れっきとした、エレキ・バンド(爆)だった。
『レッツゴー!!タイガースみたいなリカちゃんトリオ かっこいいわ』
というコピーもあった。
タイガースは、勿論、阪神ではない。

それにしても、わたるくんが、ヴォーカルって。
確か、彼のプロフィールは『音楽はにがて3』だったハズ。
そんなことも省みず、わたるくんは、
『「よしきた!リカちゃんトリオで、エレキ音楽をやろう!」
と今にも若大将バクハツの予感
だったと書かれている。

リカちゃんは、幼いせいか、見事なまでに、ストレスが無かった。
自分はハーフで、裕福ではあっても母ひとり子ひとりで、
ママは国際的な服飾デザイナーで多忙・・・、
10歳そこそこの少女にとって、世の不条理をそれなりに感じ、
孤独な思いも味わった生活だったのではないかと想像されるのだが、
リカちゃんの当時のプロフィールには、いつも、
このあたりの事情が、実に簡潔に述べられているのみだ。

悩みはフランス人のパパの行方がわからないこと

悩みは算数が苦手なこと、という程度の、こだわりの無さだ。
しかも、どこまでもポジティブなリカちゃんは、
一度も会ったことのない、生きているかどうかもわからないパパのことを、
『リカは、よくパパの夢をみるの。足が長くて、ハンサムで・・・』
と、一方的に自分好みの容姿で描写している。
頭髪の行方の怪しい、ハラの出た白人、なんてのは完全に想定外だ。

ちなみに、パパはピエールと言い、職業はオーケストラの指揮者、
というのが、初代リカちゃん時代からの一貫した設定なのだが、
当時、日本にいる香山母娘がその行方を把握できなかったということは、
ママのデザイナーとしての華々しい活躍に比して、
パパのほうは限りなく無名の音楽家だったのかもしれない。

ときに、リカちゃんは自分語りが好きだったようだ。
だいたい、「もしもし、私リカよ」で有名な、『リカちゃん電話』も
いつも、聴き手を羨ましがらせるほど楽しそうな、
リカちゃんの近況報告だった。
「リカちゃんは電話で自慢話ばかりするから、キライ」
という意見も、そういえばどこかで読んだことがあった。

『想い出のリカちゃん』には、リカちゃんの日記も紹介されている。
『リカのゆめは、デザイナー。
でも、デザイナーになるには、もっとべんきょうしなくっちゃ・・・。
それから、およめさん!だれにおよめにいこうかなー。
ケンちゃん、わたるくん、かずおくん・・・』

カルい(汗)。
結婚などという人生の重大事を語るのに、
まるで、どのバッグを持っていこうかなー的な浮かれ具合だ。
リカちゃんは、「わたる」のほか、「ケン」や「かずお」が好きだったが、
このあと、気の毒なことにわたるくんが死ぬと(製造中止になると)、
マサトくん、イサムくん、かけるくんという新顔たちが、
リカちゃんのボーイフレンドとして次々に登場することになる。
本当に、リカちゃんの男性遍歴は華麗だ。
しかも、「ケン」ってバービーのボーイフレンドだっただろうが。

そして現実には(と言っていいのかどうかわからないが)、
リカちゃんは成人後、デザイナーにはならず、外交官になり、
フランツ・シブレーという、日仏ハーフの男性と出会って、結婚する。
これは2000年代初頭、㈱タカラが発表した公式設定だ。
30歳で、女の子を生んだ、という展開まで当時は決められていた。
高い学歴を持ち、国際的に活躍し、かつ結婚も子供も手に入れる、
というのが、平成の女の子たちの典型的な憧れだった、というわけだ。

ただ、2009年現在、公式サイトのどこを探してもこの話は出て来ないので、
『リエお姉さん』同様、『なかったこと』にされている可能性は高い。
リカちゃんは、結局、今もやっぱり白樺学園5年生、永遠の11歳なのだ。

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加藤 徹氏の《梅蘭芳 世界を虜にした男》を買った。
毎度、何かの拍子にハマるとしばらく追求する私の病気だ。

映画のノベライズ本では触れられていなかったことが
評伝のかたちで様々に紹介されていて興味深い。

これを読んでいて感じるのは
ひとりの天才が花開くためには
彼を支えるブレイン集団が不可欠であったということだ。
どんな偉大な芸術家も本人ひとりでは世に出られない。
今で言う《チーム○○》が、その芸術家のために存在し、
なおかつ、チームの構成員の質が抜群に高かったとき、
天才は世界にその名を知らしめるほどの飛躍が可能になるのだ。

そう考えると、梅蘭芳とは逆に、
チームを持たなかった、あるいは持とうとしなかったために
才を埋もれさせた人も少なくなかったのかもしれない。
チームの支えを持たない芸術家に可能なのは、
せいぜい、限られた場所での成功だけであることが大半だろう。

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『團十郎と歌右衛門』(中川右介・著)を読み終え
頭がかなりカブキ・モードになったので、
ついでに『菊五郎の色気』(長谷部 浩・著)を読み直すことにした。
これは発売当時にすぐ買って読んだのだが、
「音羽屋の旦那だけの本~~!!」
と興奮し過ぎて変な読み方になってしまった気がするので、
今、もう一度冷静に、ちゃんと読もうと思ったのだ。

(自分で買ったものと、音羽会で貰ったサイン本と2冊あるのだ)

しかしやはり「冷静に」というのは無理だった。
歌右衛門や、先代の團十郎となると、実際に見たというより
自分の中で、偉大なる伝説として既に遠い存在になっているが、
菊五郎と来れば、私も過去二十数年分、実際の舞台を観ているし、
自分の記憶の中で今なお鮮明な場面も多々あり、
読んでいると「そうそう!それ~!!」と興奮してしまい、駄目だった。

『昭和61年12月、歌舞伎座で上演された『白浪五人男』が
技芸の充実とたぐいまれな美貌が並び立った舞台として、私の記憶に残っている』
と長谷部氏は書かれているのだが、全く全く同感で、
しかもあれって辰っつぁん(辰之助)の最後の南郷だろ!?
ゴールデンコンビの弁天・南郷の見納めだったんだよぉぉぉ、
と、私はまたまたテンションが上がり、
『44歳となった菊五郎は、爛熟の極みともいえる弁天小僧を演じたのであった』
というのを読めば、ええええ!!今の私と同い年のとき!!?
と、またしても、いちいち、取り乱すワタクシであった。

ああ、いけない。
そろそろ旦那の舞台を観なくては、禁断症状が出そうだ。
しかし音羽屋はというと、来月は、菊五郎劇団を率いて、
NINAGAWA十二夜』ロンドン公演、4月はお休み。
これの大阪松竹座公演が7月に始まるまで、待たねばならないのか。

松竹大歌舞伎『NINAGAWA十二夜』予告編(YouTube)

そういえばエリザベス朝演劇の時代にも女優はいなくて、
芝居の中での女性役は、少年俳優によって演じられていたはずだ。
『十二夜』の主人公ヴァイオラは、
わけあって男装しシザーリオと名乗っているのだが、
彼女を男だと信じ込んだ伯爵令嬢オリヴィアから思いを寄せられ、
自分はその男装のまま、オーシーノ公爵に恋をしている。
少年が女性役を演じて、それが男装していて、心は女

これを演じようと自分から考えた菊之助、偉すぎるぞ、
・・・と長い溜息の出るワタクシであった。

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團十郎と歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』
(中川右介・幻冬舎新書)を、今、読んでいる。
十一代目團十郎と六代目歌右衛門が、それぞれ、
同じ頂点を目指して競った、熱い昭和の歌舞伎世界を描く物語で、
事実に即して書かれながら、役者たちの内面には作者の想像が入り、
劇評とは違い、一時代の抗争を描く小説的な面白さのある本になっている。

私は歌右衛門は晩年の出演作をいくつか観たが、
私が歌舞伎を自分からよく観るようになった80年代には、
既に大成駒(おおなりこま)となられて久しく、
別格の存在で、それこそ御名前を口にするのも憚られる、
という尋常でない雰囲気が、観劇仲間の間にあった。
知らない者がうっかり発言することだけでもタブー、というような。

一方、先代の團十郎の舞台は、世代的に、全く観られなかった。
今「海老様」と言ったら当代の海老蔵に決まっているが、
我々おばさんが「海老様」と言うときには、
現・團十郎の昔の呼び名をうっかり言ってしまっている場合が多い。
が、私たちより上の御婆様がたが「海老様」と祈り手になるときには
もうひとつ前の、十一代目の團十郎のことを言っている。
私の観察では、この世代の「海老様」信仰が破格に強い。

私の祖母は明治生まれだったが、やはり海老様贔屓で、
十二代目團十郎の襲名披露のとき私の持ち帰った番附を見ながら、
「立派や。せやけど型がもうひとつや。
お父さんのようになるには、もうちょっと、かかる」
と、ひとりでしきりと頷いていたものだった。
また祖母は、先代団十郎の最後の頃の舞台を観たそうで、
「花道に出てきた團十郎の足が、かさかさに乾いていて普通ではなく、
ああこれはただごとでなく体こわしとる、あかん、と思うた」
とあとになって言っていた。
祖母にとって先代の團十郎は、終生、見果てぬ夢のままだったのだ。

(余談だが私にとってのそのような役者は、尾上辰之助だ。
辰之助が生きていたら、私の歌舞伎ライフは更に更に熱かっただろう)

私は、だから、二人の名優の生きた時代を、生で知っている、
とは到底言えない観劇歴なのだが、
この本は、歌右衛門と團十郎に関して、
私が今まで漠然と感じたり体験したりしてきた事柄の多くを、
説明し裏付けしてくれる内容になっていて、大変興味深い。

それにしても、本のオビに、
『いまの海老蔵のお祖父さんのライバル物語』
と書いてあるのには笑ってしまった。
そうなのか。時の人は、当代の市川海老蔵なのだな。
二十年くらい前、歌舞伎座の一幕見席で偶然ご一緒した、
当時既に八十代でいらしたおばあちゃまが、
贔屓の役者の話題になったとき、
「わたし、今、新之助に夢中なの」
と少女のように頬を染めて仰ったことが今も記憶に残っている。
彼は当時から人の心を狂わせる役者であったようだ。
私の知る限り、おばあちゃま世代の歌舞伎ファンは、
彼をこそ「海老様の再来」と言っている。


追記:実はこの本を書店で見つけたのは主人で、
「買わん?あんたに、良さそうと思って」
と見せてくれたのだが、著者が中川右介氏だと知り驚いた。
中川氏には、私が以前、山田亜葵の筆名で
ポゴレリチについて書かせて頂いたとき
(『クラシック・ジャーナル』2005/06/20発売号 (14号))
大変お世話になったからだ。
氏の感性と独自の切り口により、
歌舞伎というジャンルの本を手がけて下さったことを
とてもとても、嬉しく思い、この出会いに改めて感謝している。

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