転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



團十郎と歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』
(中川右介・幻冬舎新書)を、今、読んでいる。
十一代目團十郎と六代目歌右衛門が、それぞれ、
同じ頂点を目指して競った、熱い昭和の歌舞伎世界を描く物語で、
事実に即して書かれながら、役者たちの内面には作者の想像が入り、
劇評とは違い、一時代の抗争を描く小説的な面白さのある本になっている。

私は歌右衛門は晩年の出演作をいくつか観たが、
私が歌舞伎を自分からよく観るようになった80年代には、
既に大成駒(おおなりこま)となられて久しく、
別格の存在で、それこそ御名前を口にするのも憚られる、
という尋常でない雰囲気が、観劇仲間の間にあった。
知らない者がうっかり発言することだけでもタブー、というような。

一方、先代の團十郎の舞台は、世代的に、全く観られなかった。
今「海老様」と言ったら当代の海老蔵に決まっているが、
我々おばさんが「海老様」と言うときには、
現・團十郎の昔の呼び名をうっかり言ってしまっている場合が多い。
が、私たちより上の御婆様がたが「海老様」と祈り手になるときには
もうひとつ前の、十一代目の團十郎のことを言っている。
私の観察では、この世代の「海老様」信仰が破格に強い。

私の祖母は明治生まれだったが、やはり海老様贔屓で、
十二代目團十郎の襲名披露のとき私の持ち帰った番附を見ながら、
「立派や。せやけど型がもうひとつや。
お父さんのようになるには、もうちょっと、かかる」
と、ひとりでしきりと頷いていたものだった。
また祖母は、先代団十郎の最後の頃の舞台を観たそうで、
「花道に出てきた團十郎の足が、かさかさに乾いていて普通ではなく、
ああこれはただごとでなく体こわしとる、あかん、と思うた」
とあとになって言っていた。
祖母にとって先代の團十郎は、終生、見果てぬ夢のままだったのだ。

(余談だが私にとってのそのような役者は、尾上辰之助だ。
辰之助が生きていたら、私の歌舞伎ライフは更に更に熱かっただろう)

私は、だから、二人の名優の生きた時代を、生で知っている、
とは到底言えない観劇歴なのだが、
この本は、歌右衛門と團十郎に関して、
私が今まで漠然と感じたり体験したりしてきた事柄の多くを、
説明し裏付けしてくれる内容になっていて、大変興味深い。

それにしても、本のオビに、
『いまの海老蔵のお祖父さんのライバル物語』
と書いてあるのには笑ってしまった。
そうなのか。時の人は、当代の市川海老蔵なのだな。
二十年くらい前、歌舞伎座の一幕見席で偶然ご一緒した、
当時既に八十代でいらしたおばあちゃまが、
贔屓の役者の話題になったとき、
「わたし、今、新之助に夢中なの」
と少女のように頬を染めて仰ったことが今も記憶に残っている。
彼は当時から人の心を狂わせる役者であったようだ。
私の知る限り、おばあちゃま世代の歌舞伎ファンは、
彼をこそ「海老様の再来」と言っている。


追記:実はこの本を書店で見つけたのは主人で、
「買わん?あんたに、良さそうと思って」
と見せてくれたのだが、著者が中川右介氏だと知り驚いた。
中川氏には、私が以前、山田亜葵の筆名で
ポゴレリチについて書かせて頂いたとき
(『クラシック・ジャーナル』2005/06/20発売号 (14号))
大変お世話になったからだ。
氏の感性と独自の切り口により、
歌舞伎というジャンルの本を手がけて下さったことを
とてもとても、嬉しく思い、この出会いに改めて感謝している。

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