転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今時は「格差社会」であるし、ここに書かれた彼女の境遇を読めば、
「けっ」と思う人は、普通に、多いのではあるまいか。
カバー写真からして、宮中大礼服に身を包んだ樺山資紀伯爵と、
その腕に抱かれた孫娘、つまり幼稚園時代の正子だ。
生まれたときから「おつき」の女性にかしづかれ、
「供待ち部屋」が当然のように設けられている学校に通って正子は育った。
大正初期、父親が初めて買った自動車は、7人乗りのキャデラック。
別荘には、若き日の昭和天皇がお見えになったし、
秩父宮妃節子さまとは幼馴染みで大の親友。

正子14歳のとき、父親がワシントンに行き国務長官にかけあい、
移民法の枠を越えての留学、ニュージャージーの学校で四年間を過ごす。
18歳で帰国した後、することは何もなく社交界でパーティやダンスに明け暮れ、
ついには飽きて「もっと面白いことがある筈だ」と考える毎日。
19歳で白洲次郎と結婚してからも、変わらず「おつき」の女性が一緒で、
出産した三人の子供たちも責任を持って育てて貰うことができたので、
正子本人は、能の稽古に熱中し、骨董に魅せられ、『文士』たちと飲み歩き、
毎年一定期間は、夫の仕事について行ってヨーロッパで過ごす日々だった。
『私ほど糠味噌くさくない奥さんはいないと、珍しがられることもあるが』
って、いくらなんでもそれは当然です(爆)。

しかし、白洲正子は、単に恵まれていたから非凡な人間になり得た、
のではないと思う。
確かに、彼女の発想や審美眼をかたちづくったものの基盤には、
彼女に最初から与えられていた、贅沢な境遇があったことは間違いない。
能や古典に関する素養や、欧米の文化に早くから触れた体験、
要人たちとの幅広い交友関係、等々は、
家庭の地位の高さと財力の大きさゆえに得られたものであり、
それらが正子を磨き、彼女に独特の視点を与えたことは確かだろう。

だが、それでは、誰でも同じ境遇に暮らしていたら、
正子と同じように鋭い審美眼を養い、
彼女と同等の書き手になることが、たやすくできるものだろうか?
私は、それは違うと思う。
むしろ『猫に小判』で終わる例のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。
環境が整っていた上に、受け手である正子本人の側に、
持って生まれた非凡な感性と知的能力が備わっていたからこそ、
『白洲正子』たりえたのだと、私はこの本を読んで強く思った。

例えば、少女時代の正子は、香道に打ち込む母親の姿に
ある種の嫌悪感を抱くのだが、
それは香道の様式に対して、ありがちな違和感を持ったのではなく、
ましてや香道にのめり込んでばかりで家族をないがしろにして、
などという憤りがあったのでもなくて、母親の姿の中に、
『香りの向こう側に、この世のものならぬ声を聞いている』、
という心の闇を感じ取ったからだった。
『ご存知の通り、香は、「嗅ぐ」と言わずに「聞く」という』、
母親は香に包まれて『神の声を聞いたかもしれないし、
天上の音楽に耳を澄ますこともあったであろう』、
と正子は書いている。
その孤独な耽溺の異常さを、少女の正子は感じ、母親を哀れに思う。

また、正子が能に魅せられるようになったきっかけの話も興味深い。
それは幼稚園時代のことで、靖国神社の奉納能を観る機会があり、
最初、正子はそれが何なのか、当然、全くわからず、
その気がないまま、ただ妙に引き入れられる舞台だと思って眺めていた。
と、そこで偶然に、停電が起こった。
暗闇の舞台の上では何事もなかったように音楽が続いており、
やがて舞台の四隅と橋掛に紙燭がともされた。

幼い正子は、そこに出現した世界に魂を奪われた。
異境のように浮かび上がった舞台、僅かな角度でも表情を変える面。
その面が上を見上げれば、正子には、視線の彼方の空に月が昇るのが見え、
下を向くと、足下の砂浜に波が打ち寄せて来るのがわかった。
演目は『猩猩』であったことを後に正子は知るのだが、
このときの鮮烈な印象が、彼女を能の世界に引き入れることになったのだ。

白州正子という人は、才能と境遇の両方に恵まれた、
希有な存在であったのだと思う。
このように才気煥発な、選ばれた人間であった彼女が、
梅若六郎の薫陶を受けて能を学び、細川護立の手ほどきで古美術に触れ、
七代目幸四郎や五代目歌右衛門、黒田清輝、
またハイフェッツやクライスラー、ラフマニノフなどという、
伝説的な人々の名演や芸術作品に直接触れて育ったことは、
まさに得難い幸運であったのだ。

特権階級によって芸術が育まれ、それが世に多大な貢献をするという、
貴重な例のひとつを、私は白州正子の中に見たと思った。

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