織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑の治世を巧みに生き抜いた、茶人で武将の上田宗箇の手になる名庭園を訪ねた。
まずは、入り口側に近い南側の「枯山水」庭園を拝見。
のっけから巨岩を大胆に組上げた、力強い石組が見られる。
徳島城内の限られた場所に設えられた庭園なので、決して面積は広くないはずだが、とてつもない広がりを感じさせるのはさすが。
いきなり眼前にくねるように配された石組は、阿波の国を守る神:龍をあしらったものだろう。
飛び石の先にある取付路も、一石で架けられた橋も複雑にうねっており、石の表面は龍の胴を想起させる鱗状の模様が走り、青みがかった色彩と相まってさながら生きているよう。
散策路から少し見上げた位置にはこの配石。
これはやはり、日本庭園に必ずと言って良いくらいに配される三尊石と見た。
白砂で表現された海上に、まさに漕ぎ出でんとする舟形石。
遠く彼方左側には、彼岸と思われる州浜臨まれる。
龍の胴体を模した橋を渡り切った先に、海上に突き出した懸崖の松がある。
臥龍が息を殺して潜む。紛れもない姿だ。
風水に叶う場所には守り神の龍が住む。
徳島藩蜂須賀家の武運長久を願って宗箇が策定したものに違いない。
庭園に使われている石はすべて、表面が緑がかって見える。
徳島地方で多く産出される「緑色泥岩」である。
ゴツゴツした表面に緑色が溶け込んで、さながら生き物の感じがする美しい岩だ。
上田宗箇の庭に好んで見られる蘇鉄。
豊臣秀吉が渡来人から献上されて気に入ったところから、しばし日本庭園に植えられるようになったは本当か。
少し場違いな感じもしないではないが・・・
こちらは徳島地方では産出されない花崗岩を、丁寧加工して橋を架けた。
先の龍に似せた橋とは異なり、これは渡り歩く橋であり、高価な御影石(花崗岩)を見せるのと、石工の加工技術を誇ったものであろう。
しかし利用場所に悩んだものか、一枚岩の途中に矢穴を施してあった。
結局割ることは叶わず、そのままこの場所に落ち着いたものだろう。
こんな巨石を移動するのはとても困難なので、利用場所を確定するのに悩み抜いた痕跡がありあり…
そして巨根がいきり立った様な一石と、これを迎え入れようとする穴の開いた一石が、向かい合わせに鎮座していた。
明らかにこの一対は「陰陽石」であろう。
阿波踊りに象徴される徳島の大らかさが、この写実的陰陽石に表れているようだ。
そしてその先には、秦の始皇帝も夢見た神仙蓬莱峡も、指呼の間に臨まれた。
ここに辿り着くには、いかなる辛酸を舐めれば叶うのか?
上田宗箇は仕えた武将の本拠地に、独特な表現の作庭をしている。
オイラが知る限りでは「名古屋城二の丸庭園」「和歌山の粉河寺」「徳島城表御門庭園」そして地元広島の「浅野の泉邸:縮景園」がある。
但し縮景園は他の三庭と趣が異なり、荒々しい石組は影を潜めている。
年を重ねるに従い宗箇の考えが変わったのか、他の庭師が手を加えた時に変容したのか定かではないが、荒々しい石組に心を奪われるのはオイラだけかな?
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