みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

中島義道著「生き生きした過去~大森荘蔵の時間論、その批判的解読~」

2014-07-18 19:36:45 | 哲学

本書の構成は以下の通りです。

   まえがき

 1 立ち現われ一元論

 2 過去がじかに立ち現われる

 3 過去透視・脳透視

 4 「思い」の立ち現われ

 5 過去の制作

 6 生と死

   あとがき

 それなりの期待感をもって開いた本なのに、読み始めてまもなくから、何だかつまらないなぁ・・となった。(自分の理解力不足を棚に上げて!) 大森荘蔵って、竹を割るようにスッキリ明快な論理の人と思っていたのに、立ち現われ だなんて曖昧な語を鬼の首でも取ったかのように振り回していたのか・・ そういう考え方(?)を選んだのは貴方(大森)の勝手でしょ・・と言いたくなるほどに。

中島義道は、少なくともこの本では平易な言葉遣いを守っているけれど、揺れたり、捻じれたり、先走ったり、逆行したりする文脈を追っていると、イライラし、ウンザリしてくる。

それでも何故か、どんどん読み進んでいった。靄の向こうから私を引き込む深淵のようなものが感じられたからだろうか。

事態が急展開したのは「5 過去の制作」。倦んでいた私の姿勢が正された。こういう経緯だったのか・・大森荘蔵の哲学は。

~「過去の制作」後の一連の論文(その思索の集大成『時間と自我』が1992年に刊行されます)によって、大森哲学は大転回を遂げます。~過去の出来事は「実在的過去から立ち現れる」というのではなく、「<いま・ここ>で言語的に制作される」という転回です。

不勉強な私は、大森荘蔵の著書としては「時間と自我」(2013.2.12記事)しか読んでいないのだ。お恥ずかしい限り。

まず「私]がすでに成立していて、それが世界を制作するのではなく、が~世界を制作すると同時に、(いわば反対側に)自分自身を「私」として制作するのです。

「6 生と死」で、大森荘蔵という師に対する著者の、切々たる情愛が一挙に膨らみ、爆ぜんばかりに感じられました。

実在的過去が崩れること、それは、先生にとって~この宇宙がまったく「空無」になることであり、まさにそこに見えてきたのは「奈落」以外の何ものでもないのです。

~たとえ生きるために「程々の実在論」にすがらざるをえないとしても、その底には「空無の実在論」がぽっかり穴をあけていること、先生はこのことを恐ろしいほど実感していたのではないか、と思われます。

~「立ち現われ一元論」とは、世界を自分の「うち」に呑み込んでしまう試みなのではなく、逆に、「自分を世界へ解放してしまう」試みなのです。~しかし、こうした試みが完成したかと思われた瞬間に、先生は足元をすくわれる。~過去は、もしかしたら空無なのではないか? いや、この~現在すら、もしかしたら空無なのではないか?

ツマラナイと思い、ウンザリしていた 立ち現われ が、私にとって懐かしいもののように思えてきました。

~先生は~空無に身をゆだね、「まったく新しい哲学的言語を作成する」道が開かれていることを知りながら、その道を歩むことを断固として拒んだようなところがある。~俗衆とともに(?)、最後まで苦しみ抜こうとする覚悟のようなものがある。その意味で先生は~殉教者であろうとした。

南木佳士の書評(6/8東京新聞)は魅力的だったけれど、・・心情を表に出さぬ著者の姿勢 云々のくだりは当たらない。抑え切れるものではなかっただろう。

しかし・・空無の「奈落」を突き抜けて「向こう側」に至る道をたどること が、哲学によって果たして可能でしょうか? 中島義道は、自らがその道をたどるのだ・・と言いたいのでしょうか? 人は、宗教に拠らずに救われることが可能なのでしょうか?