まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回中国観音霊場めぐり~大関魁皇、特急「かいおう」、篠栗四国八十八ヶ所

2020年08月17日 | 中国観音霊場

折尾8時21分発の福北ゆたか線経由の博多行きに乗車して、8時40分着の直方でいったん下車する。次に乗るのは8時58分直方始発の博多行きである。

直方に来るのも久しぶり。かつての筑豊の炭鉱群の中心地だったところで、石炭記念館もある。当初は北九州近辺の日帰り周遊で石炭記念館見学や、かつての炭鉱線だった平成筑豊鉄道に乗ることも考えていたが、この後博多からの「かわせみ・やませみ・しんぺい」の臨時列車に乗る予定である。そのため駅前を少し見る程度となった。

2011年に新たに使用された駅舎。かつての駅舎では、駅前に炭鉱夫の像があったと記憶しているが、現在はここに新たな像が建っている。

それが直方出身の、元大関・魁皇(現・浅香山親方)の像である。平成の名大関として、通算1047勝、大関在位65場所(史上1位タイ)、幕内優勝5回を数える。横綱昇進も間近だったが、その後は故障もあり、大関在位が長い中、角番も13回(史上2位)を数えた。晩年は負け越し(休場)~角番~何とか勝ち越し~負け越し(休場)を繰り返すことに、当時同じような状況だった千代大海(現・九重親方)ともども批判の声もあったが、当時台頭してきたモンゴル勢いに対抗する力相撲に多くの声援が送られた。

銅像は2014年に完成したもの。大きさは等身大かな?と思ったが、高さは238cmあるという。ネットで検索すると魁皇本人が出席した除幕式の画像があったが、本人と銅像を並べると圧倒的に銅像のほうが大きい。一方で、かつてあった炭鉱夫の像は駅前から撤去され、現在は遠賀川の河川敷に移設されたという。石炭のイメージから脱却しようとしているのかな。

道を挟んで、黒い四本柱の建物が見える。大関魁皇にちなんで土俵でも再現したのかなと近づくと、かつての直方駅舎の車寄せを復元したものという。大変な勘違い。直方の鉄道の歴史を伝えようということのようだが・・。

次の博多行きに乗るためにホームに出ると、折尾方面からの列車がやって来た。先ほど乗った「DENCHA」が、若松から折尾を経て直方まで直通している。この車両の導入によって、若松から直方まで非電化区間~電化区間の直通運転が実現した。やって来た車両はパンタグラフが上がっていた。

次の博多行きは転換クロスシート車。青空の下、こちらも炭鉱の町だった飯塚に入る。現在も残るボタ山は今では緑に覆われた小山である。

桂川に到着。列車の通過待ちということでしばらく停車する。ここは筑豊本線と篠栗線の分岐駅だが、筑豊本線の終点である原田方面には1日10本足らずの列車が行き来するばかりで、博多へ続く篠栗線が本線の扱いとなっている(福北ゆたか線)。日本有数の装飾古墳とされる王塚古墳の最寄り駅との看板がある。

ここでやって来たのが「ハイパーサルーン」の車両。土曜・休日運転の特急「かいおう5号」である。特急「かいおう」は朝の直方・飯塚から博多への通勤、夕方の博多から飯塚・直方への帰宅の特急として走っているが、博多に10時過ぎに到着ということで、土曜・休日に博多へ出ようという人を目当てにもう1本運転されている。「かいおう」は「魁皇」である。かつての歴史の偉人ならともかく、運行を開始した2001年当時はバリバリの現役力士。そして引退後も特急「浅香山」とせずに「かいおう」として運転されていることに、地元の人たちの「魁皇愛」を感じさせる。

話がそれるが、列車名から四股名がつけられたというのが、現在幕内の輝。石川県出身で、北陸新幹線の最速列車「かがやき」に因んだもの。スピード出世を期待しての四股名だが、現在の成績を見ると、幕内中位~下位を行ったり来たりで、このままでは「かがやき」ではなく「はくたか」(同じ高田川部屋には読みは違うが白鷹山(はくようざん)という力士がいるなあ)、いやいや、下手したら「つるぎ」になってしまうぞ。もう一皮むけるよう頑張ってほしい。

篠栗線に入ると山がちな景色になる。篠栗線は石炭輸送のために吉塚~篠栗間は明治時代に開業したが、その先の桂川まで延びたのは1968年のこと。福岡の近郊路線で、福岡と筑豊を結ぶ短絡線として建設され、現在の福北ゆたか線につながるのだが、開業が後になったのは途中の八木山峠を越える必要があったからである。

その篠栗の山中にあるのが、篠栗八十八ヶ所。四国八十八所のミニ霊場で、小豆島、知多と並んで、日本三大新四国霊場の一つとされている。篠栗は弘法大師空海も唐からの帰朝時に修行したとされているが、霊場が開かれたのは江戸時代の天保年間、この地を訪ねた慈忍という僧によるという。村の困窮の救済のために祈願したところ、やがて村が繁栄した。これを弘法大師のご利益として村人たちに四国八十八所を模した霊場をつくるよう働きかけたのがきっかけである。

八十八所といっても四国のように立派なお堂が並ぶ寺は少なく、多くは山道の中にあるお堂や石仏だという。地元愛好家のサイトによると、篠栗という限られた地域の中だが、全長で約60キロ、徒歩だと4日間コースとある。

九郎原から篠栗トンネルを抜け、列車は城戸南蔵院前に到着。この南蔵院は、篠栗八十八ヶ所の第1番札所であり、総元締めである寺である。今思えば、いっそ特急に乗らず、ここで途中下車して篠栗八十八ヶ所をちょっとのぞいてもよかったかなと思う(一応、この旅も「中国観音霊場めぐり」という札所めぐりが建前なので・・)。この次の筑前山手、篠栗も八十八ヶ所の玄関駅となっている。

篠栗からは福岡近郊となり、乗客も少しずつ増える。各線の線路が集まり、周りには高層マンションも並ぶ吉塚から鹿児島本線に入り、10時19分、博多に到着。これから乗る「かわせみ・やませみ・しんぺい」の臨時列車は20分後に発車する・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~「DENCHA」に乗る

2020年08月15日 | 中国観音霊場

8月14日、この日は北九州近辺をぶらつく日である。中国観音霊場めぐりと言いながら、中国地方には足を踏み入れない。

朝6時に小倉に到着して、この日のお目当てである「やませみ・かわせみ」「いさぶろう・しんぺい」連結の臨時列車は博多発10時40分である。それまでに博多に着けばいいのだが、臨時列車が鹿児島本線を走るのなら、往路は変化をつける意味で筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)で向かうことにする。

そして、筑豊本線を訪ねるなら、折尾~若松の区間(若松線)にも乗ってみたい。同区間は非電化路線であるが、数年前に珍しい車両が導入されたと聞き、久しぶりの同区間訪問としよう。今回の3日間の行程は青春18きっぷも使用する。

小倉6時23分発の羽犬塚行きに乗車する。若松に行くのなら、戸畑で下車して若戸渡船に乗るのも面白い。ただ、他の季節ならそうするだろうが、この日も朝からうだるような暑さである。戸畑駅から渡船乗り場、渡船降り場から若松駅まで歩くのもしんどそうだ。ここは普通に?鉄道で折尾まで行き、そこから乗り換えとする。

この辺りは八幡製鉄所に代表される重工業と、駅前に高層マンションが立ち並ぶ光景が対照的に続く。その中で大きな空き地が現れる。2017年に閉園したスペースワールドだが、現在も駅名は残る。この跡地に、2022年の開業を目指して西日本最大級のイオンモールが建てられるという。そうなるとさすがに駅名もスペースワールドのままというわけにはいかないだろう。

折尾に到着。この駅も再開発工事中である。以前は鹿児島本線が高架を走り、筑豊本線(福北ゆたか線、若松線)は地平のホームから出ていた。福北ゆたか線は電化されたが、若松線は、鹿児島本線の高架下をくぐるガードの寸法が狭いために架線を通すことができず、非電化のままだった。また、折尾駅にはもう1本、鹿児島本線と福北ゆたか線の短絡線があり、このホームが本線とは離れた場所を走っている。これらの線路をすべて立体化することで乗り換えの利便性を向上させ、道路や駅前の整備を進めるという。かつての懐かしい建物をイメージした駅舎もできるようだ。

2020年8月の時点では福北ゆたか線、若松線の高架化が完了しており、工事中の通路を歩いて移動する。通路には工事の概要を紹介するパネルや、駅係員の手作りイラスト、九州豪雨の復興を祈願した折り鶴などが飾られていて、殺風景にならないようにしている。

これから乗るのは7時ちょうど発の折尾行き。折尾駅ホームが高架化されても若松線じたいは非電化のまま。それなのに列車番号の末尾には電車を示す「M」の文字が入る。これが珍しい車両「DENCHA」である。JR九州のBEC819系という車両で、種別としては「蓄電池駆動電車」という。「”D”UAL ”EN”ERGY ”CHA”RGE TRAIN」の頭文字をとって「DENCHA」である。

技術的な細かなことは省くが、要は架線下を走るときは架線からの電力で走るとともに、搭載された蓄電池に充電する。そして非電化区間ではその蓄電池を動力として走るのである。とうとう鉄道にもそういう技術が本格的に導入されることになったか。ただし、蓄電池で走行できる(他にも照明や冷暖房なども賄う必要がある)のはまだ短い区間ということで、現在実用化されているのはこの若松線と、香椎線である。この技術が進むと、現在「◯◯線の早期電化実現を!」という運動がなされている区間でも、架線を張ったりトンネルを広げるよりも車両を進化させることで「電車化」することも可能となるだろう。 

若松に向かう列車はパンタグラフを下ろしている。車内に入る。いわゆる「水戸岡デザイン」というやつで、ロングシートの形状も独特である。まあ、短時間の乗車であればこのくらいで十分である。

確かに、架線のない下を電車が走っていく。車内のモニタでは現在の動力モードが表示されていて、現在は蓄電池からエネルギーを供給しているという流れが紹介されている。

15分で終点の若松に到着。ホームに着くとスピーカーから、ジャズの名曲『聖者の行進』が流れる。もっとも、この曲を耳にするとつい、漫才のおぼん・こぼんの「お椀出せ! 茶椀出せ!」のネタのほうがイメージされるのだが・・。なぜジャズでのお出迎えということだが、駅舎内に説明が出ている。

若松駅は現在はホーム1本きりの終着駅だが、かつては広大なヤードを持ち、筑豊からの石炭の積み出しで賑わっていた。現在、駅近辺に建っている高層住宅も、もともとはヤードの敷地だったという。また、若松の港も中国・上海との物資の行き来で賑わっていた。戦前の上海は文化の最先端都市で、そこからジャズも入ってきた。若松の町おこしの一環で、2018年から列車の到着時、そして日中の時間帯の発車時にジャズの名曲を流している。

折り返しの列車まで少し時間があるので、かつての操車場跡や、洞海湾の景色を見に行く。9600型蒸気機関車が置かれているが、かなり損傷が激しい。

若戸大橋も朝日を受けて輝いている。

次に乗るのは7時55分発の折尾行き。この1本後、8時12分発の直方行きに乗れば途中で動力が変わるシーンを見られたかもしれないが、直方まで1本早い列車で先行するために乗り込む。こちらも同じように蓄電池での運転だ。

8時11分、折尾の福北ゆたか線・若松線の高架ホームに着く。次に乗るのは8時21分発の福北ゆたか線経由の博多行きで、直方でいったん下車するつもりなのだが、ホームの案内に表示されていない。平日と休日で時刻表を見間違えたかなと改めて紙の時刻表を検索するが、時刻は合っているようだ。そして改札口横に掲示されている時刻を見ると、同じ直方、飯塚方面の列車ではあるが、「Aのりば」とある。先ほどの高架ホームが6・7番のりばだったのに対して、これは短絡線のホームから出る列車である。その鷹見口へは北口から250メートル離れているとあり、先ほどホームを探している間に時間が経っており急いで向かう。

まるで「鷹見口」という駅名であるかのような表札がかかる建物に到着する。駅員が顔をのぞかせて「直方方面?急いで向こう側のホームに行ってください。踏切が鳴ると渡れなくなるので」と急かす。確かに、私が踏切を渡って数秒後に警報音が鳴りだした。ロングシートの車両に乗り込み、遠賀川沿いの筑豊エリアを走る。

別にこれに乗り遅れたからといって、次の列車は若松から直方まで直通する「DENCHA」である。ちなみに直方から博多へは同じ列車に乗るのだが、直方で15分ほどの時間を取った。久しぶりに駅を向かうが、あるものを一目見たかったからである・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~名門大洋フェリーで九州へ

2020年08月14日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりと言いながらいったん九州を目指す。ちょうど夏休みを利用しての遠征である。

8月13日、まずは大阪南港から出航する名門大洋フェリーに乗る。17時に出航するが、フェリーの場合は貨物の積み込みもあるため、結構早い時間から船内に入ることができる。またこういう状況なので、乗船前に検温を行うために時間に余裕を持ってターミナルに来るよう案内があった。そこで16時までには行っておこうと、ニュートラムに乗り込み、フェリーターミナル駅に到着する。

8月の13日といえば例年ならお盆のラッシュの真っ最中で、フェリーも多くの人で賑わうことだろう。クルマで乗船できることから家族連れも多い。これまで5月の大型連休や年末など、何回か大阪南港や泉大津からのフェリーに乗った時はそんな感じだった。

ところが、ターミナルの建物に入ると行列もなく、数人が手続きを行っているところだった。検温ということでサーモグラフィーの前に立ち、異常なしとして「検温済」の紙を渡される。そして乗船手続きだが、すでにWEB予約、カード支払いは済んでいて、QRコードが発行された紙を出すだけ。そして領収書と乗船証明書を渡される。「GoToキャンペーンの詳細が決まっていないのですが・・」と言われる。

GoToキャンペーン。以前このブログにて「出かけるのは出かけるが、GoToキャンペーンは利用しない」と書いたが、その考えは今は変わっている。国がどうぞと言うことなのだし、別に変なところで片意地を張らなくてもいいのではないかということだ(別に、GoToキャンペーンを利用しないと言ったところで誰もほめてくれるわけではない)。

このキャンペーンは「宿泊」に対する国からの補助だが、夜の移動手段についてはケースが分かれるようだ。ポイントは、「完全に横になれる」、「布団と枕がある」ということのようだ。この点でいえば夜行バスは対象外だし、夜行列車についても寝台車ならいいが、「サンライズ出雲・瀬戸」の「ノビノビ座席」は布団や枕がないために対象外となる。名門大洋フェリーはその条件は満たしているとしてGoToキャンペーンの対象事業者として申請しているが、まだ承認が下りていないとのことである。そのため、いずれ承認が下りるものとして、補助を希望する人は後日これらの書類によって自分で手続きするようにとのことである。

待合室に上がるが、ここも人はまばら。売店も閉まっている。16時から歩行者の乗船受付開始となり、船内に向かう。

今回乗るのは「フェリーふくおか2」。出航を展望スペースで待つ人もいるが、混雑しているという感じではない。

予約したのはファーストの1人洋室。こういう状況なので2等の桟敷スペースやコンパートメント型の寝台も間隔を開けて発売されていて、それでも空席があるくらい。安く済ませるならこうしたスペースとなるが、気兼ねなく過ごしたいということで1人部屋を予約していた。広さは3畳分もないかなというところだが、ベッドのほかにテーブル、テレビ、洗面台が備え付けられている。

フェリーの個室といえば、今年の初めに新型コロナウイルスの集団感染があったクルーズ船を連想する。あの船内でも乗客が客室内に隔離されていたが、もし何らかの事情でここから出ることができない・・・となったら、すぐにメンタルをやられてしまいそうだ。いや、そういうことを想像するのはやめよう。まだ外は明るいのだから、ソファーに座って出航を待つことにする。

17時に出航。同時に、船内レストランも営業開始ということで向かう。混雑時の船内レストランといえば営業開始前にすでに長い行列ができるイメージだが、今回はそれほど待つこともなく入ることができる。バイキング形式で1600円。アルコールは別注だ。

ただ、こういう状況のため、通常の大皿からめいめいで取っていくスタイルではなく、個別に盛られた小皿を取っていく方式だ。食べ放題のカフェテリア形式とでもいうか。感染予防策の一つであるが、提供する側からすれば、作ったものをまた個別に皿に盛り付け、ラップで覆って・・・と手間がかかることだろう。またごはん、みそ汁、カレーは客のリクエストで常によそわなければならないから、その手間も増えている。お疲れ様です。

カウンターで瓶ビールを注文したが、コイン式の生ビールもあるので合わせていただく。アテには大阪湾の景色も含まれる。ほとんどの人が生ビールを注ぎ、また焼酎と水割りセットを注文する人もいるが、酒盛りで騒ぐということもなく、全体的には静かな食事風景である。乗船客が元々少ないためか空席のテーブルも多かった。

時刻は18時近くとなり、そろそろ明石海峡大橋の下を通るとの放送が入る。これを潮に夕食を終え、展望デッキに出る。前方には夕日が差し、明石海峡大橋のシルエットを映し出す。

これまでの乗船だとここでは大勢の客が出て橋の撮影、そして自撮りであふれかえるのだが、この日は人の姿もまばら。それにしても、海からの強い風が来るのは来ているのだが、その風が熱い。空気が熱い。潮風を浴びながらビール・・・というのにも暑いので、大人しく展望座席にいるのがいいだろう。

その前に入浴。船内の浴場も感染対策でロッカーの数を半分に減らしている。それでも私が行った時には他に客はおらず、海を見ながらの入浴である。

そして展望スペースのソファーにて憩う。テーブルに乗るのは「檸檬堂」。コカ・コーラが販売するチューハイだが、当初は九州限定発売だったものが、2019年10月から全国展開された商品。レモンの「甘味」を感じさせる。

個室に戻る。そういえばということで、船内でも映るNHK-BSをつける。ホークス対バファローズの一戦がちょうど終盤に入っている。この試合はバファローズが初回、山足の先頭打者本塁打で先制したものの、すぐさまホークスに逆転を許し、3対1という展開で7回から8回に入った。バファローズはランナー2人出したものの、T-岡田、ジョーンズが相次いで凡退。9回も簡単に抑えられてそのまま敗戦。ホークス先発の大竹が今季初勝利で、バファローズ先発の張が先発の役目を果たすも打線の援護なしという結果になった。

これで(13日時点で)ホークス6連戦は3戦3敗、前週から通算して6連敗という目も当てられない結果になった。うーん、このまま予定変更して福岡に行ったろうかとも思うも、チケットはホークスのファンクラブ会員でもなかなか手に入らないし・・。

21時を回り、瀬戸大橋が近づくとのアナウンスがある。夜なので写真のほうは難しいし、瀬戸大橋もライトアップしているわけではない。それでも四国の島影が見える。ちょうど橋を渡る列車の窓の灯りが移動する。結構長いように見えるが、快速マリンライナーか特急しおかぜか。

翌朝も早いので、個室に戻りそこそこに就寝する・・・。

・・・翌朝14日、4時に起床して身支度をする。早くも4時30分からレストランが朝食の営業を開始する。前日夕食で利用した人には朝食券が渡されており、無料で利用できる(朝食単品は300円)。もっとも、「軽朝食」ということで、バターロールにゆで玉子、コールスロー、ソフトドリンクというもの。これらも夕食同様に自由に取るが、個別包装されたもの。

定刻では5時30分に到着だが、実際はそれより10分ほど早く新門司港に到着。新門司港からは小倉駅までの無料送迎バスに乗る。外は明るく、また暑い一日になりそうである・・・。

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第14回中国観音霊場めぐり~今回は(今回も?)乗り鉄が目当て?

2020年08月13日 | 中国観音霊場

夏休みの期間である。2020年の夏はさまざまな意味で「特別な夏」となっているが、いろいろ言われる中、やはり出かけることにする。移動中、そして移動した先で注意するしかない。今ここで延期したり、自分が大阪に籠っていたからといって事態が好転するものでもない。またこう書くと自粛警察が暴れまわるのだろうが。

中国観音霊場めぐりも第14回となる。何回行ってるねんというところだが、まあ、日帰りで1ヶ所だけ回ったのも1回と数えるので、瀬戸内・山陽側を回るだけで13回かかった。ここからは折り返して日本海・山陰側である。今の見通しでは7~8回かかるかなというところ。

今回の目的地は、山口県萩にある第20番・大照院、第21番・観音院。また、行ければということで島根県浜田の第22番・多陀寺も対象にしている。

萩と浜田が目的地なら、大阪から高速バスが出ているし、新山口まで行って路線バスか山口線から山陰線に出れば行けるのだが、中国地方循環の一筆書きも兼ねており、ルート選びはいろいろ考える。また山口県西北部の日本海沿いには、角島大橋や元乃隅稲成神社といった、インスタ映えで国内外で人気のスポットもある。元乃隅稲成神社はひょっとしたら昔々の広島勤務時代にドライブで訪ねたことがあるかもしれないが、いずれにせよ近年有名になってからは訪ねていない。これらのスポットはクルマで行けばどうということもないが、公共交通機関となると厳しい。角島へはまだ路線バスが出ているが、元乃隅稲成神社となると、ネットでの情報によると最寄駅の長門古市からタクシーの「相乗り」を薦めている(ちなみに歩くと2時間ほどかかるとか)。

まだ今年の3月頃のことだが、8月に山口県北部~島根県西部を訪ねることを前提にプランを練っていたところ、JTB主催の日帰りツアー「やまぐち絶景満喫バス」というのを見つけた。湯田温泉、新山口駅を出発して、道の駅北浦街道、角島大橋、元乃隅稲成神社を回り、長門市駅、湯本温泉を経由して戻るコースである。それまでに長府の第19番・功山寺を回り、下関までたどり着く前提で、8月のコースを申し込んだ。

しかし、それ以後のコロナ禍、そして緊急事態宣言である。緊急事態宣言は解除されたが、「やまぐち絶景満喫バス」は9月末まで運行中止との連絡があった。あの辺りは安倍晋三の選挙区(それどころか、安倍家のルーツ・・・岸信介ではなく父方の・・・があるところ)ではあるが、現実の生活は他の地方と違わず厳しいのだろう。もっとも、これを機会としてか、元乃隅稲成神社も老朽化していることから修復工事を行うため、境内に入ることもできないようである。

ならば10月以降に延期するか・・・とは考えなかった。下関から長門市、萩まで山陰線の鈍行で行くことにする。観光列車「◯◯のはなし」もコロナ禍のために運休されているし、時刻表を見て数少ない定期列車を利用することにして、宿泊は萩にするか、益田、浜田まで行くか、萩での町歩き時間をどう取るか、いくつかの組み合わせを考える。

その前に、下関までどうやって行くか。新幹線で行くか、それこそ朝から夕方まで在来線を乗り継ぐかというところだが、今回は新たな手段として、フェリーでいったん九州は新門司港に上陸することにした。大阪からは阪九フェリーと名門大洋フェリーの2航路があるが、大阪側のアクセスのよさから名門大洋フェリーを選択。新門司港から送迎バスで小倉に移動。あとは北九州、関門海峡をぶらぶらして、下関か小倉に泊まることにした。まずここは、まだ泊まったことがないということもあり、小倉での宿泊とする。

その翌日は小倉から下関に出て、山陰線で萩に向かう。当初は萩に泊まる方向で考えていたが、結局は萩と浜田の中間にある益田とした。山口線の分岐駅でもあり、それまでの行程も踏まえて柔軟に動けるかなというところ。

・・これで骨組みは、大阪南港~新門司港~小倉駅~北九州・関門海峡~下関~東萩~益田~浜田~新大阪となった。8月13日に大阪南港を出発、16日に帰阪である。

ここまで決めたところで、明るいニュースが入ってきた。コロナ禍の影響で運行を中止していた山陰線の「◯◯のはなし」と、山口線の「SLやまぐち号」が8月1日から運行を再開するという。早速指定席を確保した。当初は浜田から大阪まで高速バスで移動しようかとも思っていたが、これで山口線経由、新山口からの新幹線ということになった。

また、これは7月の九州豪雨を受けてのことになるが、肥薩線を走る観光特急「かわせみ やませみ」と「いさぶろう・しんぺい」が、肥薩線の復興応援企画として、2列車を連結させて博多~門司港を走ることが発表された。これは特急なので青春18きっぷは使えないが、乗ることにしよう。ちょうど、フェリーで小倉に降り立った後、博多まで移動してこれに乗ればちょうどいい。

・・・何だか、中国観音霊場めぐりというよりは、乗り鉄がメインの行程となりそうだが(いつもそうでしょうに・・・)、さまざまなものに触れてみたいものである・・・。

※画像はいずれも以前に乗車した時のもの。

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他県ナンバー狩りを知事が先頭にたって実施しながら、今さら何やねん。

2020年08月12日 | ブログ
徳島県、阿波おどり中止で徳島市の宿泊施設の3割が廃業検討だとか。

・・それがどうかしましたか? だから何やねん。

確か、徳島県外ナンバーを監視して、入って来たクルマは容赦なく尋問してましたね。香川との県境にも何か因縁つけてましたね。それを知事や市長が率先していたときいてますが・・。

あと、阿波おどりも徳島新聞やら市長やら地元の反社たちの間で、何かカネのことでもめてましたなあ。

さらに、四国遍路を「ばいきんまん」てなかわいいものではなく、文字通り「バイ菌」呼ばわりして寺を閉めたよな。

鳴門大橋は関所ですか、そうですか。

鎖国していて今さら何ですか。四国の中心は高松であり松山でしょ。のこのこと神戸や大阪に来るなや。あと、勝手に関西の放送局の電波を受信するな。四国放送で十分やろが。

謹啓。
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山本由伸投手、これまでありがとうございました。

2020年08月11日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

これまでファンに夢を与え、楽しませていただいてありがとうございました。

・・・でもまあ、ここまでですね。さすがに・・・。

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新型コロナウイルス接触確認アプリ

2020年08月11日 | ブログ

新型コロナウイルス接触確認アプリ「COCOA」。厚生労働省が6月19日にリリースしたアプリで、8月7日現在で約1200万件がダウンロードされているという。

私も7月初めにダウンロードしたが、ちょうど野球観戦に行くとか、外に出かけるということを見込んでのことである。別に外出の免罪符になるわけではないし、新型コロナウイルスの感染確率をゼロにするものではないが、夏のお盆期間中の旅行・帰省に対して自粛警察が暴れまわっている中、行く側の最低限の対応として、これはダウンロードを勧めるというよりは、ダウンロードするべきだと思う。

この仕組みは、ダウンロードしたスマホどうしが1メートル以内、15分以上近づいた状態になると接触状態と認識され、その記録が暗号化されて保存される。仮に、ダウンロードしていた人が新型コロナの陽性判定となった場合、保健所からその人あてに発行された番号を登録すると、さかのぼって14日以内に接触状態と認識された人のスマホに通知が行くことになる。もしこの通知が来た場合、ひょっとしたら自分も陽性の恐れがあるとして検査を受けるなどの手を早く打てる。だから早期発見と感染拡大の抑制につながる・・・というものである。

今のところ私のところに何か通知が来たわけでもなく、画面を開いても「接触は確認されませんでした」と出るばかり。一応安心はしているのだが、これでもし通知が来たら「誰のせいやねん」と疑ってかかるのだろうな。逆に私が知らず知らず広めてしまった、という可能性もあるが。

ただ、新型コロナウイルスに対してさまざまな情報を仕入れて自分で内容を理解して、普段から対策をして、その一環でこうしたアプリを入れている人というのは、(根拠があるわけではないが)感染する、あるいは陽性反応が出るケースはほとんどないのではないか。その逆で、何の対策もせず、もちろんこんなアプリなんか知らない、役に立たない、面倒臭い、役所の言うことに聞く耳持たないという人というのも一定数いて、(やはり根拠があるわけではないが)感染してしまった人の相当な人数が該当するのではないかと思う。

毎日新たな感染確認者数ばかりをセンセーショナルに発表するのもいいが(スポーツ中継の最中にわざわざ字幕で速報を出すのはいかがなものか。そこまで緊急性があることなのか)、感染確認者数とアプリのダウンロード数との相関関係は分析されているのか。アプリを入れるだけ無駄なのか、それともアホなのか。まあ、アホなんでしょうな、安倍が。

このアプリは相当数、一説では人口の6割以上活用してようやく期待される効果が出るとされている。そうであれば、配信から2ヶ月近く経ってまだ1200万件というのは程遠い。具体的にこのアプリのおかげで次の手につながったという話も聞こえてこないし、今のところ気休めにしかなっていない。

厚生労働省の広報ももう少し力を入れるべきだし、マスゴミもこうしたことをもっと伝えるべきだろう。少なくとも、アベノマスクよりは役に立つのだから・・。

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第13回中国観音霊場めぐり~新下関から帰阪

2020年08月10日 | 中国観音霊場

7月23日~25日にかけて行った中国観音霊場めぐりの最後は、新下関から「こだま」で新大阪までの通し乗車である。

帰りに利用したのはJTBの「トク得日帰り片道プラン」で、山陽地方から新大阪、新神戸に向かう割引商品である。通常期の指定席利用14,070円のところ、9,300円での発売である。

乗車するのは新下関17時55分発の「こだま866号」。往路と同じく500系である。のみならず、前回6月の時に新山口から新大阪まで乗り通した列車である。行きは「こだま」ながら指定席が満席、自由席がガラガラという状況で自由席に移ったが、今回みどりの券売機でシートマップを見ると、指定席も空席が目立っており、今度は自席にて過ごすことにする。

新下関の次の厚狭では12分停車。ホームに出て在来線ホームを眺める。山陽新幹線の駅としては1999年に開業したが、開業以来、定期列車は「こだま」しか停車しない唯一の駅である。山陽新幹線は他に新尾道、東広島、新岩国のような利用客の少ないイメージの駅があるが、時刻表を見ると朝や夜には「ひかり」が停車している。厚狭に新幹線が停まるようになったのは美祢線、小野田線、その先の宇部線方面の利便性向上のためとは思うが、実際に利用する人はどのくらいいるのやら。またホームも16両の長さは取られているが、現在は8両編成しか停まることはない(かつての「こだま」は4両とか6両とかいう時代もあったから、車両は増えている)。

次の新山口でも5分停車。そろそろこの辺りで車内での宴開始である。ビールや山口の「山頭火」などが窓枠、テーブルに並ぶ。前後には客はいないし(斜め前にカップルはいたが)、別に一人で黙々と飲み食いするだけである。

メインとして購入したのは、「下関三海(みつみ)の極味(きわみ)弁当」。先ほど下関で一度改札を出た時、駅構内の一角にある「イズミゆめマート」で購入したものである。駅構内ということで下関の土産物も多く置かれているし、鮮魚コーナーには(今回は買わなかったが)ふく刺しも普通に並んでいる。2020年に新たにデビューした弁当とのことで、「三味」と「ふく・うにづくし」の2種類があった。迷った末に選択したのが「ふく・うにづくし」である。

中身は「ふくチーム」と「うにチーム」が真ん中で仕切られていて、とらふくの皮を炊き込んだふくめしに、焼きふく、唐揚げが入る。また一方では粒うにを炊き込んだうにめしに、イカのうに和え、エビのうにバター焼きなどが加わる。少しずつちびりちびりといただいたが、一方では他に「三海」の幸が入った「三味」のほうが酒にあったかな・・・とも思う。次回の中国観音霊場めぐりでも下関に来るので、その時に入手しようか。

飲み食いするうちに徳山、新岩国と来て、広島で18分の長時間停車。追加の買い物ということで車外に出る。6月に同じ列車で広島に停まった時は、ホーム、コンコースの売店は全て休業中だったが、今回は(うどん店は営業休止だったが)普通にホームの売店で買い物ができた。

この後も東広島、三原、新尾道とそれぞれ数分ずつ停車するのでそのたびに外に出る。三原では、ライトアップされた三原城の石垣(微妙やなぁ・・)もホームの窓越しに見たし、新尾道では「日本遺産」のPR看板もあった。

・・・と、ここまでは覚えていたのだが、次に気づいたのは新大阪到着を知らせる「いい日旅立ち」のメロディーだった。前回は三原から姫路まで意識が飛んでいたが、今回は福山から新大阪である。岡山でも数分停車していたが全く気づかなかった。まあ、3日間いろいろあったし、最後は「こだま」で新大阪止まりという安心感もあったのだろう・・。

これで中国観音霊場めぐりも瀬戸内、山陽側を回り終えて、次からは日本海、山陰側となる。また交通手段もさまざまなものが出てくることになるだろう。続きとなる第14回はこの夏休みにて実施しようと思うのだが・・・。

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第13回中国観音霊場めぐり~門司港レトロと九州鉄道記念館

2020年08月09日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりも少し足を延ばして関門海峡を渡る。やって来たのは門司港レトロである。

目の前には高さ103メートルの門司港レトロ展望室があるが、天候も今一つで遠くの景色も難しいからパスをする。他には旧大阪商船ビル、大連友好記念館、旧門司税関など、建物を外から見て楽しむ。観光客の姿もそこそこ目立つ。これらの施設は6月19日から営業を再開しているが、出光美術館のみは4月から当面の間休館が続いている。

当初のプランでは、朝に本山支線に乗った後は宇部新川をゆっくり目に出発する予定だった。それが、本山支線に乗ってそのまま西に向かったものだから、2時間ほど前倒しで進んでいる。そこで急遽門司港に渡ろうという話になったので、レトロの建物も外からふわっと見る形でも満足である。

ただ、せっかく来たので九州鉄道記念館には入りたい。レトロ建物群から歩いて到着する。新型コロナウイルスの影響で2月28日から臨時休館し、5月25日から開館したが、北九州市での感染者増加の影響で5月28日から再び臨時休館。6月19日から再度開館と慌ただしい。

受付では体温測定と、万が一感染者が発生した場合の連絡ということで、用紙に連絡先の記入を求められる。記入したが、この記事を掲載する時点で、特に私あてに九州鉄道記念館から連絡は来ていないので、おそらく大丈夫だろう。

まずは屋外展示ということで車両群を見る。しかし感染防止ということで、車内に入っての見学は休止との張り紙が出ている。まあ、それは仕方がないだろう。

蒸気機関車、電気機関車、特急型電車、ローカル気動車、寝台客車、寝台電車・・・さまざまな歴史ある車両たちを眺めると表情もほころんでくる。

ローカル気動車のキハ07というのは戦前の車両だが、昭和40年代までは全国各地で走るのが見られていた。また私鉄にも譲渡され、岡山の同和鉱業片上鉄道で走っていた車両は現在も柳原ふれあい鉱山公園で動態保存されており、私もこの観音めぐりの一環(?)で展示運転に乗ることができた。こういうローカル車両というものに魅かれる。

寝台客車・電車の車両のほかにヘッドマークが飾られている。九州と関東・関西を結ぶブルートレインの数々。この中では学生時代、大阪から九州に向かうのに「あかつき」、「なは」は乗ったことがある。ただし寝台ではなく、バスと同じ3列シートの「レガートシート」というもの。夜行バスとの価格競争の意味合いがあり、確か特急料金のみで寝台料金が不要だったから乗ったと思う。それでもずいぶん前のことだ。

他には「あさかぜ」、「富士」、「はやぶさ」、「さくら」などとある。これらは広島勤務時代、東京に行くのにわざと利用したことがあった。しかし「さくら・はやぶさ」、「はやぶさ・富士」というように2つの列車が統合したもので、ブルートレインの本数も減りつつあった頃である。そしてご存知のとおり、客車のブルートレインは全て廃止、現在残る一般の夜行列車は「サンライズ出雲・瀬戸」のみとなった。後はクルーズタイプの列車が走るばかりである。

そんな中、イベント夜行列車としてこの9月から「WEST EXPRESS銀河」が運行を開始する。かつての新快速117系を改造した車両で、当初は2020年5月からの運行予定だったが、新型コロナウイルスの影響で運行が延期されていた。ようやく運行開始ということで申込受付が始まっている。ただしこれはJRのみどりの窓口で一般の列車として発売するものではなく、日本旅行の京阪神~山陰間の旅行商品としての発売である。往路または復路での乗車プラスホテル1泊や、往復とも乗車(車中2泊)といったいくつかのパターンが用意されている。とりあえず9月18日出発分の抽選にエントリーしたが、結果はいかに・・。

館内に入る。こちらでも鉄道模型のジオラマ運転の中止や、キッズルームの閉鎖といった対応が取られている。その中で、九州の鉄道に関するさまざまな展示が行われている。目立つ位置にあるのが「つばめ」。かつて東海道を駆け抜けた国鉄の名門列車で、現在は九州新幹線の列車名として受け継がれている。

他にも鉄道に関する実物展示もいろいろある。駅時刻表として「大隈駅」というのがある。今は廃止された上山田線の駅である。

この時は企画展示として「竹田恵一鉄道企画展」というのが行われていた。昭和35年生まれ、中学時代から全国の鉄道を撮影とある。九州内での作品が多いが、他地方の懐かしい車両、今ではなくなった列車の作品も多数展示されている。

なかなか充実した時間を過ごし、そろそろ門司港駅に向かう。門司港駅が改装されてから訪ねるのは初めてである。駅舎は1914年に竣工したが、老朽化のため本格的な保存修理工事が2012年からおよそ6年半かけて行われた。私が前に門司港駅に来た時はちょうど工事中で囲いに覆われていたので、久しぶりにその姿を見る。竣工当時の姿により近づけたという。

かつての一等・二等待合室がみどりの窓口、三等待合室はスターバックスとなっている。で、今の待合室は・・・かつての小荷物取扱所。
 
次の15時41分発の大牟田行きまで時間があるが、待合室で荷物のように待つのもなんなので、早めに改札を通ってホーム上のベンチで休憩する。こちらのほうがまだ風通しもよい。

これから下関に戻るが、そのまま門司を通過していったん小倉まで行く。実は次の中国観音霊場めぐりは、中国観音といいながら小倉からスタートする予定で、マーキングの意味もある。具体的な内容はまたその時に触れるが、もう少し九州の滞在時間が増えることになる(おそらく札所より「鉄分」が濃くなる)。土産物に九州ブランドの一品も入り、今度は16時10分発の下関行きに乗り込む。

車内に、豊肥本線の8月8日全線運転再開を知らせるポスターが飾られている。2016年の熊本地震以来のことである。これは地元にとっては明るいニュースである。JR九州は他に2017年の豪雨により日田彦山線(添田~夜明)、そして2020年の豪雨で肥薩線(八代~吉松)、久大本線(日田~向之原)が引き続き運休となっており、日田彦山線は鉄道ではなくBRTへの転換、そして肥薩線、久大本線は再開見込みが立ってない状況である。肥薩線、久大本線は観光特急も走っており、JR九州としても復旧させたいところだろうが、多額の費用がかかることから悩ましいところである。

小倉を出発し、門司から関門トンネルに入る。車内換気として少しだけ窓を開け、海底トンネルの涼しい風を受ける。

再び本州に上陸。下関駅に東からではなく小倉・門司方面から降り立つという意外な展開で、唐戸から駅までかなりの大回りとなった。山陽方面、山陰方面、九州方面と、交通の要衝の雰囲気が漂う。

この後は新下関に向かうが、いったん改札を出て駅ビル内のスーパー(イズミゆめタウン)でこの日の夕食の買い出しを行う。その後、17時17分発の岩国行きで新下関まで移動。在来線ホームから再び長い連絡通路を通って、新幹線口のコンコースに出る。雨や汗で結構濡れたので、トイレの中でシャツを着替える。

今回の最後は新下関から新大阪までの「こだま」通し乗車。だんだん新幹線での移動が長くなる・・・。
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第13回中国観音霊場めぐり~関門海峡を望み、渡ってしまう。

2020年08月08日 | 中国観音霊場

関門橋の下関側のたもとにあるみもすそ川公園に立つ。ちょうど壇之浦の戦いの場となったところである。関門海峡には学生の頃から数えて何度目かの来訪であるが、私の好きな旅先、景色の一つである。

源平の最後の合戦が行われたが、その決め手になったのは潮目である。1日に何度も流れが変わるという難所で、午前中は西に陣取った平家側が西から東への潮の流れを利用して有利に戦いを進めていたが、これに対して源義経は、平家側の非戦闘員である船乗りたちを射させるという、当時としては掟破りの戦法に出た。これで平家側に混乱が出たところで、潮目が東から西に変わった。平家側はついに追い詰められ、総大将の平知盛をはじめ多くの武将が入水、安徳天皇も海の底にもあるという都へと旅立った。

対岸の門司側の和布刈神社の建物もはっきり見える。距離だけ見れば泳げるのではないかと一瞬思わせるが、流れの速さというのは見ていてもわかるくらいだ。もしはまったら、泳ぐどころかまず助からないのではと思われる。関門海峡の人道トンネルの入口がある。ここでトンネルを歩いて門司に渡ろうかと思ったが、やめておく。

海沿いをこのまま歩き、赤間神宮に到着。安徳天皇が祀られ、海の底の都をイメージした水天門が出迎える。その正面に海峡に接した灯籠があり、石段が海面に続いているが、近づかないよう警告の看板が出ている。流れが急なうえ、突然の高波で足元をさらわれる恐れがあるという。

拝殿で手を合わせて、宝物殿に入る。平家の武将たちの肖像画や、源平合戦の絵巻物、屏風が三方に展示されていて、中央に安徳天皇の木像が安置されている。等身大の姿というが、わずか6歳で入水させられた姿は悲しげに見える。6歳といえば現代なら小学1年生?、周りの大人たちの事情で2歳とか3歳で天皇の位に就かされ、死なばもろともで入水させられた人生って一体・・。ちょうど居合わせたカップルの参詣者も木像の表情に「怖い」と言っていたが、確かに夜中にこの木像を見たらびびるやろうな。

怪談の世界といえば、ここは「耳なし芳一」の「現場」である。物語には阿弥陀寺という名前の寺が出てくるが、今の赤間神宮のことである。何のことはなく、元々が阿弥陀寺だったのが、神仏分離・廃仏毀釈のために赤間神宮になっただけのことである。

「耳なし芳一」といえば、昨年福江島を訪ねたツアーの帰り、小倉駅から新門司港まで向かう貸切バスの中で添乗員の方が語ってくれたのが上手く、印象に残っている。その時のことを思い出しつつ、芳一像や平家一門の墓に向かい合う。

赤間神宮からの脇道を抜けると、ふくの老舗料亭の春帆楼に出る。その一角にある日清講和記念館。日清戦争が日本の勝利になったことを受けて、日本から伊藤博文、陸奥宗光、清国から李鴻章、李経方を全権として下関で戦後処理に関する条約を結んだ。

歴史の教科書などで、その時の様子を描いた絵を見たことがあるという方も多いと思う。記念館ではテーブルをはじめとした当時の調度品を復元して、見る者に当時の様子を伝えてくれている。下関条約の全文の写しも壁面のスペースで展示されている。今回訪ねた時は新型コロナによる入国制限のためにインバウンドの客というのは見なかったが、そうした国々の現代の人たちには、下関条約というのはどう映っているのだろうか。台湾はこれで日本が領有することになったし、韓国(朝鮮半島)は後に併合されるまでの第1段階に入ったし・・。

ここまで来れば唐戸市場が近い。昼食は唐戸市場で何かを買って海峡を見ながらいただこう。

そして入場したのだが、この行列、この密である。多くの店で寿司や刺身を買うことができるとあって、同じようにここで昼食をという人が多い。ほとんどの人はマスクを着用しているとはいうもの、隣の店舗とも密につながっているので行列の間隔を開けるのも難しい。まあ、唐戸市場で感染者発生という話は聞かないし、活気が戻っているようにも見えてそれは喜ばしいことなのだが・・。

私は元々並ぶのが好きではないし、唐戸市場の中でもこの店でなければという事前情報やこだわりがあるわけではないので、その辺りの手近な店で、寿司(1貫単位で購入可能)とふく刺しを購入する。札所めぐりも終わったのでビールも1本いただこう。

海峡に面したテラスも結構な密である。その中の一角に腰を下ろす。真夏にふく刺しというのもイメージがわかないが、そこは流通の多い町ということで。寿司ネタは生くじら、くじらベーコン、のどぐろ炙り、特牛イカ(こっといイカ・・剣先イカの山口県ブランド)、かわはぎ、クエという、100円の回転寿司では絶対に出てこない一品。ビールも合わせるとこれで3000円となると贅沢な食事となった。いずれもネタは大きく、ご飯を巻くように乗っかる。まあ下関まで来て、唐戸で海のものを食べることができたのでよしとする。

さて、食事を終えて13時30分、帰りの新幹線まではまだまだ時間がある。ちょうど門司港行きの連絡船乗り場も目の前にある。先ほど人道トンネルの入口に来た時は対岸に渡るのを見送ったが、ここまで来ると連絡船に乗って門司に渡りたくなった。唐戸市場の近くにある洋館も道路から見たことにして、いっそのこと渡ってみるのもいいだろう。着いた先が門司港駅、門司港レトロ地区というのがいい。門司港駅も改装されたようだし、門司港から鹿児島本線で門司または小倉まで来て、関門トンネルを渡って下関に戻って来るのも面白そうだ。本州だ九州だと言わず、関門という一つのエリアということで楽しめばいいだろう。

というわけで門司港行きの片道きっぷを買い求め、やってきた「がんりう」号に乗り込む。

短い時間ではあるし、上のデッキに上がる。乗船時間は数分だが、波の速いところを横切っていくために結構揺れる。船体に波しぶきが当たる。

門司港に到着。中国観音霊場めぐり、番外編で本州を飛び出して九州の地を踏むことになった。まあ、以前には岡山の札所に行くのにわざわざ四国を経由したこともあるので、別に何でもありだが。門司港に来るのも数年ぶりなので、駅周辺を少し回ってみることにする・・・。

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第13回中国観音霊場めぐり~長府から関門海峡へ

2020年08月07日 | 中国観音霊場

功山寺にいる間に雨は止んだようで、そのまま総門の向かいにある下関市立歴史博物館に向かう。功山寺境内にあった長府博物館が移転する形で2016年にできた建物である。

受付の前に体温測定とアルコール消毒がある。先ほどの功山寺では暑かったし、納経所以外には人の姿もなかったのでマスクを外していたが、改めて着けなおす。受付ではどこから来たかの聴き取りもあった。もっともこれは新型コロナ対策というよりは、博物館としての来訪者アンケートの感じだった。下関市内、山口県内、近隣エリア(広島や福岡)、それ以外という風に来場者の分布を作るのかな。これら一連の協力、何の面倒臭さもないし、市としてきちんとしているなと思う。

展示は下関、長府の歴史というところ。長府というくらいだから長門の国府があったところで、町内の覚苑寺には貨幣の鋳造所である「長門鋳銭所跡」も残されている。また一方では壇ノ浦の戦いの絵巻物や、大内氏、毛利氏の治世についても紹介されている。

江戸時代、毛利氏は防長2ヶ国に封じ込められたが、本家の長州藩(萩藩)に対して、支藩の長府藩があったことは前に触れた。防長2ヶ国には他に、同じ支藩の徳山藩、そして長府藩の支藩(長州藩から見れば孫藩)の清末藩、さらには微妙な扱いの岩国藩(吉川家)が存在した。このうち岩国藩は、長州藩の立場から見れば藩ではなくあくまで毛利氏の家臣が治めていたところであるが、逆に幕府は本家への牽制のためか、藩として待遇していたことがある。それはさておき、長州、長府、徳山、清末の各藩については、同じ毛利氏の「一文字に三つ星」の家紋でも、一文字の形が少しずつ違っている。そこは本家と分家の違いなのだろう。

幕末関係でいえば、高杉晋作の遺品であったり、下関戦争で使用された大砲が並ぶ。

近代となれば下関は鉄道の開通や関釜連絡船の就航など、交通の要衝としても栄えることになった。昭和初期の下関の鳥瞰図というのも展示されていて、長府から下関にかけてを描いたもの、あるいは対岸の小倉から下関方面を見た景色を描いたものがあるが、長府から下関にかけて市電が走っているのが見える。下関に市電があったとは知らなかった。山陽電気軌道という名前で、そういえば先ほど乗ったのはサンデン交通のバスだったが、山陽電気軌道の略称であり、鉄道があったことの名残ということだ。現在も、鉄道は廃止されたがバス会社にその名を残すケースはちょいちょいある。

今回の札所めぐりの交通機関の下調べでサンデン交通の案内を見ると、「東駅」という行き先、経由地が目立っていた。これはてっきり下関の一つ新山口寄り、東側にある幡生駅のことかと思っていたが、山陽電気軌道にかつてあった東下関駅のことだというのも初めて知った。東駅には現在もサンデン交通の本社がある。

ここまでが常設展示で、一方では企画展示がある。8月30日までの期間は「志士たちが遺したことば」というもの。吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎、伊藤博文、坂本龍馬、乃木希典、西郷隆盛などといった幕末から明治にかけての偉人たちの手紙、書簡、揮毫などが展示されている。その文面の一部を抽出して、そうした書から見える彼らの想いや、人柄をうかがおうというものである。

その中で圧巻なのが、伊藤博文が漢詩を揮毫した金屏風。撮影禁止なので画像はなく、ネットで検索いただければなのだが、長府にて酒宴に参加した時、地元の徳永安兵衛という商人の求めに応じて書いたものだという。酒の酔いに任せて書いたとあるが、何とも豪快である。書かれたのは1904年とあるから、ちょうど日露戦争の激戦の最中。伊藤博文も多忙な日々だったし、ロシアとの戦争をどのようにして収めようかと心労があった時期と思う。解説では、最初は断ったものの周りの勧めもあり筆をとったとあるが、見ようによっては久しぶりにいい酒で気分がよくなって書いたとも、ストレスが溜まっていたので書きなぐって発散したとも、どちらとも取れそうな勢いに感じられる。

長府でこうした幕末に触れることができたのでよしとして、展示室を出る。ちょうど常設展示、企画展示で簡単なクイズ(展示品の解説文を読めばわかる)が出題されていて、全問正解すれば記念品がもらえるというイベントをやっていた。坂本龍馬か高杉晋作のどちらかの写真をあしらったクリアファイルが選べたが、ここは回天義挙の功山寺を訪ねたこともあるので、高杉晋作を選択する。

博物館を出るとまた雨である。雨の城下町ということでしばらくは土塀の残る通りを歩く。

途中に長府毛利邸というのがあり、立派な門の前に立つが、これは明治時代になってから建てられた屋敷であり、また雨の中靴を脱いで上がるのも面倒だったのでパスする。

その一方で訪ねたのは乃木神社。祭神は乃木希典である。日露戦争の旅順、二〇三高地の戦い、水師営の会見、明治天皇への殉死・・という言葉が連想される。乃木の殉死後、地元の人たちが長府で幼少期を過ごした乃木を顕彰しようと、旧家を復元した記念館を造ったが、後に文武両道の祭神として神社が建てられた。

この人も見方によっては名将、英雄と言われる一方で、愚将などとボロカスに言われたりと評価が分かれている。旅順の攻撃で多大な犠牲者を出したその作戦の拙劣さや、殉死といった行為に対して批判されたり、一方ではその高潔な精神性や、敵国ロシアへの処遇に対して高い評価を与える人もいる。まあ、プロ野球の監督だって見る人によって名将とも愚将と呼ばれるし、連敗して借金がかさめばすぐに「辞めろ」「解任」と言われるものだ。解任されてから数年経って優勝して、「あの◯◯監督の時に種まきをして育てた選手たちが活躍した」と言われることもある。ちなみにバファローズの西村監督はその采配について連日ファンからブログその他で叩かれているが、一方ではマリーンズ監督時代に「最大の下克上」で日本一になったことが高く評価されている・・とされている。人の評価なんてそんなものだ。

境内の一角に宝物館があるので入ってみる。照明が消えていて、中に入るとセンサーで点灯するとある。中央に進むと急にパッと照明が点いて、乃木希典の肖像画が浮かび上がり、一瞬焦る。館内は数々の遺品、書画、写真などが展示されている。また石好きという意外な面もあったそうで、各地で収集したという珍しい石も多数置かれている。先ほどの歴史博物館の企画展示でも乃木の書が公開されていたが、ユーモラスな狂歌もあった。時代によって軍神に祭り上げられたり、高潔な人格が強調されることが多いが、素の姿は人のいいおじいちゃんだったのかもしれない(日露戦争で若くして二人の息子を亡くしたから、「孫がいる」という意味でのおじいちゃんにはなれなかったが)。

そろそろ長府も一回りしたことで、バス停に戻る。途中には「維新発祥の地」の記念碑があるが何のことやら。

ここまで来たのだから関門海峡沿いに下関駅まで向かうことにする。まずは関門橋を見上げるみもすそ川公園に降り立つ。九州が近い・・・。

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第13回中国観音霊場めぐり~第19番「功山寺」

2020年08月06日 | 中国観音霊場

新下関駅からバスで城下町長府に到着。ここからこの日の目的地である功山寺を目指すが、バスを降りるとちょうど雨が落ちてきた。天気予報の「所により」が当たったか。

長府観光会館の横を小川が流れる。壇具川という川で、ちょうど下流の場所なのだが、鴨や鯉が泳ぎ回っている。またイラストマップによればホタルの生息地でもあるようで、それだけ水が清らかなのだろう。

しばらく進むと長府藩侍屋敷長屋という建物に出る。長府藩は長州藩の支藩で、長門国の西部の豊浦郡を与えられて大名となった。居城の楢崎城はここから海側、現在の豊浦高校の敷地にあった。

ここから石畳の道となり、石垣のある立派な邸宅が並ぶ。集合住宅の敷地の入口にも武家屋敷風の門を構えているところがある。同じ下関市内でも下関駅周辺の賑やかさ、猥雑さとはまた違った表情に見える。実際、住民意識にも違いがあるのだろうか。

緑が濃くなってきた。このまま進めば功山寺に着くのだが、その手前に笑山寺というのがあったので立ち寄る。長府藩の初代藩主の毛利秀元が母の菩提寺として開いたという。「笑山」とは父の穂井田元清(毛利元就の四男)の号という。

石段に良寛禅師の像という新しい像があるが、これって、あの良寛だろうか。備中にある第7番の円通寺で修行していたとは聞いているが、長府とは何かゆかりがあるのだろうか。

境内には十三重石塔や、長府藩の2代光広、7代師就の墓所がある。

そして功山寺に到着。道に面した総門の奥は濃い緑で、雨空の下では一層暗く見える。それでも名刹に来たという雰囲気が漂う。

石段を上がって山門に着く。数年前に改修を終えたばかりだそうで、色合いも鮮やかに見える。緑にもよく映えている。

この正面に国宝の仏殿があり、中国観音霊場の看板も見える。檜皮葺の二層式の屋根が反り返っている様子はいかにも禅宗の寺の趣である。まずはこちらでお勤めとする。

功山寺の歴史はというと、鎌倉末期に長福寺として開かれたのが始まりとされる。仏殿は当時からの建物という。南北朝時代は足利尊氏が敗走して九州に向かう途中で立ち寄り、勢力を盛り返して京に上る途中にも立ち寄ったとか、南朝方の足利直冬が沙汰状を与えたとか、南北両方から何かと保護されたようだ。

時代が下り、防長に勢力を持った大内氏の保護により、長福寺は大いに栄えた。しかし、陶晴賢の謀反で大内義隆が亡くなり、大友宗麟の弟が大内義長として当主に陶られた、もとい据えられた。毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を討ち、その勢いで長門に攻めると、義長は長福寺に入り自刃した。自刃したのはこの仏殿の中とされている。

その大内義長の墓が功山寺の裏手にあるという案内がある。それに沿って進むと寺の墓地がある。義長の墓がまずあって、その周りに墓地が開かれたように見えるが、義長の墓の前はこのところの雨でできたらしい水溜まりに覆われていて近づけない。近くの墓の区画にお邪魔する。

その後、長府藩の時代になると、初代藩主の毛利秀元も保護に乗り出す。そして、功山寺と改められた。「功山」というのは秀元の号という・・とは、さきほどの笑山寺と同じ。こうした呼び方、名付けは当時も広く行われていたのだろう。

先ほどの大内義長の墓とあわせて、毛利家墓所というのがある。先の笑山寺にも墓所があったが、こちらの方が秀元はじめ長府藩の歴代藩主の墓所とあって本格的である。墓所への扉には鍵がかかっていたので、隙間から中の様子だけをうかがう。

ここまで功山寺の歴史について触れたが、結局有名なのは、幕末の動きだろう。長州藩にあって、高杉晋作が奇兵隊を結成して、長州藩内の保守勢力に対する「回天」の挙兵したのがこの功山寺である。この「クーデター」「回天義挙」により、長州藩の方針は倒幕に変わり、やがて明治維新につながったとされる。

境内には高杉晋作の騎馬像が安置されている。晋作自身は明治維新を待たずに病死するのだが、後に長州から明治政府に入って日本の近代化に貢献した人たちから見れば英雄の扱いである。まあ、確かに長州の人たちはそのように活躍をしたわけだが、時代が下るといろいろ劣化もするようだ。

その最たる者がこの男。長州閥のなれの果てである。下関の人たち、今こそ「回天義挙」ではないだろうか?

本堂の前には名水がある。古口から湧き出ていて、壇具川にも続いている。案内板によると、かつては大内義長が自刃にあたり末期の水として飲んだとか、高杉晋作が挙兵する際に奇兵隊の皆で成功を祝って飲んだともある。最近では小泉純一郎元首相も飲んだとか。安倍晋三が飲んだかどうかは知らんけど。

ここで朱印をいただく。本堂の前に売店兼納経所があり、中の電気は点いているが扉に鍵がかかっている。その場合は本坊の玄関横のインターホンを鳴らすよう書かれているのでそのようにする。

しばらくして横からゆっくり出てこられたのはかなりの年輩の方。ご住職かな。「(係の者が)今掃除をしとるようで」という。そういえば本堂の中から掃除機の音が聞こえてくる。一度本堂の中に入り、中から納経所の鍵を開けてくれる。ゆっくりとした筆づかいで墨書をいただいた。

長府の町歩きはここで折り返しとなり、この後は功山寺の門前にある下関市立歴史博物館に向かう。この歴史博物館は2016年にできたばかりで、それまでこの功山寺の境内に長府博物館という名前で存在していた建物がある。この建物は元々、長府尊攘堂と呼ばれるもので、幕末の尊皇攘夷の志士たちの遺品などを展示して顕彰することを目的として、昭和初期に桂弥一の手により建てられたとある。

足利、大内、毛利、尊皇攘夷、回天義挙など、さまざまな歴史の舞台となった寺である。これで中国観音霊場の瀬戸内側は回り終え、とりあえず旅の目的は果たすことができた。後は下関市内を回るだけである。その一つとして、まずは目の前の市立博物館に入る・・・。

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安倍内閣が死に体?

2020年08月05日 | ブログ

死に体、死にたいなら死んでください。社会的にも、生物としても。

 
安倍晋三、万死にも値せんわ。長州の維新の志士が見たら、真っ先に惨殺されただろう。いや、刀が穢れるか。なれの果ては、こんなもんや。
 
安倍晋三が死んだ?本当か?生き返らないようにアタマを潰しといたか??
 
・・リアルにこうしたやり取りをしたいものです。
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第13回中国観音霊場めぐり~本山支線に乗る

2020年08月04日 | 中国観音霊場

7月25日、最終日である。この日は宇部新川から小野田線の本山支線に立ち寄った後、山陽線で長府の功山寺に向かい、下関市街を回る。大阪までの戻りは新下関17時55分発の「こだま866号」を予約している。これも、こだま利用の割引プランである。

宇部新川駅に向かう。青春18きっぷに日付印を入れてもらい、ホームに行く。停まっていたのはクモハ123系。元々は荷物用電車を改造したもので、阪和線や宇野線を走った後、現在宇部線、小野田線用となっている。この列車が6時40分発の長門本山行きである。本山支線の朝2往復のうち1便目である。

発車時、この列車に乗っていたのは私を含めて5人。いずれもその筋の客のようだ。この列車に間に合おうとすると、宇部発6時22分の宇部線経由新山口行きに乗るか、宇部新川近辺に宿泊することになる。他には、小野田発6時42分に乗れば途中の雀田で本山支線に乗り換えることもできる。

1両のロングシートに5人が思い思いの場所に座り、発車する。前日、長門本山駅や本山岬まで行き来するためにクルマで走った高架道路を見上げて、宇部線との分岐駅である居能から小野田線に入り、厚東川を渡る。前日渡った道路橋が下流部に見える。

本山支線を分岐する雀田に到着。ホームが片方だけちょこっと開いた扇形になっていて、直進するのは長門本山方面、カーブしているのが小野田方面である。元々、雀田~長門本山間が前身の宇部電気鉄道として開業し、戦前の国有化後は宇部西線として営業していた。小野田線の小野田港~雀田間が開業したのは戦後になってからのことで、そうした歴史がホームの造りに出ているのかなと思う。

小野田方面からの列車を待つために数分停車するので、一度外に出る。山口東京理科大学の最寄り駅という案内もある。同大学と地元の青年会議所が近年タイアップして、駅周辺の整備事業に取り組んだとある。駅舎の屋根も、同大学のスクールカラーであるオレンジ色に塗りかえられている。

本来であれば長門本山行きは6時59分発で、その前に小野田から6時37分着の宇部新川行きが来て乗り換えとなるはずだが、時間になっても来ない。小野田線は前日から大雨の影響で徐行運転をしていたそうで、どうやらその影響がまだ続いているようだ。結局長門本山行きのほうが接続を待たずに発車。方向幕もいつの間にか「長門本山-雀田」に変わっている。この車両、これから長門本山まで行き、折り返して雀田まで走る。時刻表からの推測では、雀田からもう一度長門本山まで行き、折り返しは宇部新川まで走ることになる。これで朝の2往復はおしまいで、次に雀田から長門本山まで行くのは夕方になってからである。

ガタゴトと走り、途中の浜河内に停車。ここで一人が下車する。次の便と合わせて本山支線のそれぞれの駅を回ろうという様子だ。

製油所のタワーをちらりと見て、雑木林の中を抜けて7時05分、終点の長門本山着。駅そのものは前日も訪ねているが、やはり列車で訪ねたほうが気分が出る。ちょうどやってきた私を含めて4人が、折り返しの数分の間で周りの撮影を行う。そして、近所の方らしいお父さんが子どもを自転車の後ろに乗せて電車を見ている。朝の日課なのかもしれない。

駅のすぐ前では、太陽光パネルの向こうに周防灘が見える。前日の本山岬では雨に降られて遠くが見えなかったが、この日は対岸の九州、門司あたりの景色が見えた。

折り返しの列車は7時11分発。やってきた人のうち一人が次の便で戻ると見えて駅にそのまま残り、私を含めて3人が雀田に向けて折り返す。

雀田に到着。ここから7時18分発の小野田行きで小野田から山陽線方面に向かう。宇部新川から105系が2両でやってきたので乗り込む。小野田港、南小野田のあたりも工場群が並ぶところである。地元の人も駅ごとに少しずつ乗ってくる。

7時33分、小野田に到着。時刻表を見る中では次の山陽線の列車まで30分ほどあると思っていたが、ホームのすぐ前にちょうど1本前の下関行きがやって来た。小野田で待つこともないかとポイと飛び乗る。こちらも105系のロングシートだが、まあ、空いているし足も伸ばせるからいいか。次の厚狭で8分停車。

あと数駅で終点の下関だが、この辺りは駅間が意外と長く、また山がちなところを走る。その中で、雨粒が窓に落ちるのが見える。この日の山口県の予報は「曇り」だったと思うが、やはり天気が変わりやすいのだろう。なるようにしかならないと、この後の天候は運に任せることにする。

新下関に到着。ここで下車する。この日の夕方はここから新幹線に乗るので、それならば大きなバッグをコインロッカーに預けようというところだ。そしてこの後で第19番の功山寺に向かうのだが、功山寺のある城下町長府へは新下関駅からもサンデン交通の路線バスが出ている。時刻表を調べると次は8時32分発というのがあり、15分ほどで城下町長府にアクセスできる。

実は新下関で下車するのは初めてである。コインロッカーやバス乗り場は新幹線口にあるというが、在来線ホームからそこまでの通路が長い。新幹線ホームの端から端へ歩く気分で、途中には動く歩道まである。その向こうにようやく駅窓口、土産物店などがあり、小ぶりではあるが新幹線駅としての体裁は揃っている。

バッグをコインロッカーに預け、時間が少しあるので再び朝食ということでうどんのスタンドへ。ご当地メニューとして「ふく天うどん」を注文。九州らしい淡泊な色のダシ、細うどんに、ふく天、かまぼこが加わる。これでお腹も落ち着いた。

そしてバスに乗車。下関らしく、シートにはフクやら関門橋やらのイラストがあしらわれている。しばらくは山がちなところを走り、急に海岸近くに出る。神戸製鋼所の長府製造所の前を通り、城下町長府のバス停の到着。功山寺もバス停から徒歩圏内で、城下町見物と札所めぐりの両方を織り交ぜてこの先歩いて行くことにする。

・・・とここで、雨が落ちて来た。梅雨の終盤の時季だが仕方がない。傘をさして歩くことに・・・。

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あのなぁ・・・

2020年08月03日 | ブログ

黙っとれや自粛警察。

こっちもやることはやっとるんや。

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