まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第13回中国観音霊場めぐり~長府から関門海峡へ

2020年08月07日 | 中国観音霊場

功山寺にいる間に雨は止んだようで、そのまま総門の向かいにある下関市立歴史博物館に向かう。功山寺境内にあった長府博物館が移転する形で2016年にできた建物である。

受付の前に体温測定とアルコール消毒がある。先ほどの功山寺では暑かったし、納経所以外には人の姿もなかったのでマスクを外していたが、改めて着けなおす。受付ではどこから来たかの聴き取りもあった。もっともこれは新型コロナ対策というよりは、博物館としての来訪者アンケートの感じだった。下関市内、山口県内、近隣エリア(広島や福岡)、それ以外という風に来場者の分布を作るのかな。これら一連の協力、何の面倒臭さもないし、市としてきちんとしているなと思う。

展示は下関、長府の歴史というところ。長府というくらいだから長門の国府があったところで、町内の覚苑寺には貨幣の鋳造所である「長門鋳銭所跡」も残されている。また一方では壇ノ浦の戦いの絵巻物や、大内氏、毛利氏の治世についても紹介されている。

江戸時代、毛利氏は防長2ヶ国に封じ込められたが、本家の長州藩(萩藩)に対して、支藩の長府藩があったことは前に触れた。防長2ヶ国には他に、同じ支藩の徳山藩、そして長府藩の支藩(長州藩から見れば孫藩)の清末藩、さらには微妙な扱いの岩国藩(吉川家)が存在した。このうち岩国藩は、長州藩の立場から見れば藩ではなくあくまで毛利氏の家臣が治めていたところであるが、逆に幕府は本家への牽制のためか、藩として待遇していたことがある。それはさておき、長州、長府、徳山、清末の各藩については、同じ毛利氏の「一文字に三つ星」の家紋でも、一文字の形が少しずつ違っている。そこは本家と分家の違いなのだろう。

幕末関係でいえば、高杉晋作の遺品であったり、下関戦争で使用された大砲が並ぶ。

近代となれば下関は鉄道の開通や関釜連絡船の就航など、交通の要衝としても栄えることになった。昭和初期の下関の鳥瞰図というのも展示されていて、長府から下関にかけてを描いたもの、あるいは対岸の小倉から下関方面を見た景色を描いたものがあるが、長府から下関にかけて市電が走っているのが見える。下関に市電があったとは知らなかった。山陽電気軌道という名前で、そういえば先ほど乗ったのはサンデン交通のバスだったが、山陽電気軌道の略称であり、鉄道があったことの名残ということだ。現在も、鉄道は廃止されたがバス会社にその名を残すケースはちょいちょいある。

今回の札所めぐりの交通機関の下調べでサンデン交通の案内を見ると、「東駅」という行き先、経由地が目立っていた。これはてっきり下関の一つ新山口寄り、東側にある幡生駅のことかと思っていたが、山陽電気軌道にかつてあった東下関駅のことだというのも初めて知った。東駅には現在もサンデン交通の本社がある。

ここまでが常設展示で、一方では企画展示がある。8月30日までの期間は「志士たちが遺したことば」というもの。吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎、伊藤博文、坂本龍馬、乃木希典、西郷隆盛などといった幕末から明治にかけての偉人たちの手紙、書簡、揮毫などが展示されている。その文面の一部を抽出して、そうした書から見える彼らの想いや、人柄をうかがおうというものである。

その中で圧巻なのが、伊藤博文が漢詩を揮毫した金屏風。撮影禁止なので画像はなく、ネットで検索いただければなのだが、長府にて酒宴に参加した時、地元の徳永安兵衛という商人の求めに応じて書いたものだという。酒の酔いに任せて書いたとあるが、何とも豪快である。書かれたのは1904年とあるから、ちょうど日露戦争の激戦の最中。伊藤博文も多忙な日々だったし、ロシアとの戦争をどのようにして収めようかと心労があった時期と思う。解説では、最初は断ったものの周りの勧めもあり筆をとったとあるが、見ようによっては久しぶりにいい酒で気分がよくなって書いたとも、ストレスが溜まっていたので書きなぐって発散したとも、どちらとも取れそうな勢いに感じられる。

長府でこうした幕末に触れることができたのでよしとして、展示室を出る。ちょうど常設展示、企画展示で簡単なクイズ(展示品の解説文を読めばわかる)が出題されていて、全問正解すれば記念品がもらえるというイベントをやっていた。坂本龍馬か高杉晋作のどちらかの写真をあしらったクリアファイルが選べたが、ここは回天義挙の功山寺を訪ねたこともあるので、高杉晋作を選択する。

博物館を出るとまた雨である。雨の城下町ということでしばらくは土塀の残る通りを歩く。

途中に長府毛利邸というのがあり、立派な門の前に立つが、これは明治時代になってから建てられた屋敷であり、また雨の中靴を脱いで上がるのも面倒だったのでパスする。

その一方で訪ねたのは乃木神社。祭神は乃木希典である。日露戦争の旅順、二〇三高地の戦い、水師営の会見、明治天皇への殉死・・という言葉が連想される。乃木の殉死後、地元の人たちが長府で幼少期を過ごした乃木を顕彰しようと、旧家を復元した記念館を造ったが、後に文武両道の祭神として神社が建てられた。

この人も見方によっては名将、英雄と言われる一方で、愚将などとボロカスに言われたりと評価が分かれている。旅順の攻撃で多大な犠牲者を出したその作戦の拙劣さや、殉死といった行為に対して批判されたり、一方ではその高潔な精神性や、敵国ロシアへの処遇に対して高い評価を与える人もいる。まあ、プロ野球の監督だって見る人によって名将とも愚将と呼ばれるし、連敗して借金がかさめばすぐに「辞めろ」「解任」と言われるものだ。解任されてから数年経って優勝して、「あの◯◯監督の時に種まきをして育てた選手たちが活躍した」と言われることもある。ちなみにバファローズの西村監督はその采配について連日ファンからブログその他で叩かれているが、一方ではマリーンズ監督時代に「最大の下克上」で日本一になったことが高く評価されている・・とされている。人の評価なんてそんなものだ。

境内の一角に宝物館があるので入ってみる。照明が消えていて、中に入るとセンサーで点灯するとある。中央に進むと急にパッと照明が点いて、乃木希典の肖像画が浮かび上がり、一瞬焦る。館内は数々の遺品、書画、写真などが展示されている。また石好きという意外な面もあったそうで、各地で収集したという珍しい石も多数置かれている。先ほどの歴史博物館の企画展示でも乃木の書が公開されていたが、ユーモラスな狂歌もあった。時代によって軍神に祭り上げられたり、高潔な人格が強調されることが多いが、素の姿は人のいいおじいちゃんだったのかもしれない(日露戦争で若くして二人の息子を亡くしたから、「孫がいる」という意味でのおじいちゃんにはなれなかったが)。

そろそろ長府も一回りしたことで、バス停に戻る。途中には「維新発祥の地」の記念碑があるが何のことやら。

ここまで来たのだから関門海峡沿いに下関駅まで向かうことにする。まずは関門橋を見上げるみもすそ川公園に降り立つ。九州が近い・・・。

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