まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回中国観音霊場めぐり~萩の町レンタサイクルめぐり

2020年08月23日 | 中国観音霊場

「◯◯のはなし」に乗ってやって来た東萩。これから中国観音霊場めぐりとなるが、観光地としても有名な城下町ということで、その辺りも一緒に回ろうと思う。実は萩の観光というのは私が中学生の時、家族旅行で来て以来だから30年以上ぶりのことである。その時は親が運転するクルマで秋吉台や青海島などを回っており、鉄道には乗っていない。ちょうど鉄道の乗りつぶしに興味を持ち始めた時ということもあって、萩に泊まった時に東萩と萩の駅舎を見に行った。

さて、これからレンタサイクルということで駅前の店をのぞく。他にも「◯◯のはなし」で来た客もいて、折り返し便は14時13分発とあるから1時間あまり城下町エリアでも散策するのがちょうどよさそうだ。

電動自転車と普通自転車があり、それほど坂道を行くわけでもなかろうと普通自転車を選択。地図をもらう時に「どちらへ行かれる?」と訊かれたので、大照院と観音院に行くと答えると「へぇ!」と驚かれた。これにプラスして松陰神社、松下村塾くらいは行っておこうと言うと、観光地図にボールペンで道順を書き、松陰神社、松下村塾、そして東光寺のエリアで1時間、あとは川沿いに走って萩駅を目指す。萩駅から大照院までは比較的近く、「観音院はこの辺ですわ」とボールペンで印がつく。そこまで行くと萩城跡も近く、最後は城下町エリアを回って市街地一周する形になる。次の列車まで4時間あれば大丈夫と踏んで出発する。

歩くことを思えば自転車は移動が楽。しかし猛暑日の炎天下の中である。外なのだからとマスクは取り、代わりに帽子をかぶる。それでも汗は次々に出てくる。しばらくペダルをこいで、まずは松陰神社に到着。

その境内にあるのが松下村塾。山口県で「先生」と言えば吉田松陰で、当時の建物が保存されている。2015年には明治の近代化遺産の一つとして世界遺産にも認定された。実際に松陰が塾生たちの指導にあたったのはわずか2年ほどなのだが、その門下生たちは尊王攘夷をかかげて活動した者や、倒幕、明治新政府に大きな役割を果たした者が多く出ている。

奥に松陰神社の拝殿がある。明治時代、松陰の生家である杉家の人たちが松陰の遺品をご神体として祀ったのが由来で、後に伊藤博文らの手により土蔵造りの社殿が建てられた。現在の社殿は戦後に建てられたもので、かつての土蔵造りの社殿は松下村塾の門下生たちを祀る松門神社となった。師弟がこうして神となって祀られているわけだが、私としてはあまり好みではない。

2018年に「学びの道」というのが新たに設けられ、松陰の語録を記したポールが立てられている。

吉田松陰歴史館がある。松陰の生涯を蝋人形の渾身の作品で紹介するというもので、中に入ってみる。

70体ほどの人形で20の場面が繰り広げられる。それはいいとして・・・古い建物のために冷房もなく、非常に蒸し暑い。扇風機があちこちで回っているが、追いつけるものではない。

最後のコーナーに、山口県出身の総理大臣の蝋人形が並んでいる。総理大臣の出身地がどこかというのは現在の公式見解では、戦前は出生地、戦後は選挙区で分けるという。それはともかくとして、まずはどっかりと座っているのが伊藤博文と山県有朋という長州閥の元老たち。

それと向かい合っているのが、桂太郎、寺内正毅、田中義一(ここまでが戦前)、そして岸信介、佐藤栄作の兄弟である。で、いずれはここにあの男も加わるのだろう。憲政史上最長、また連続在任日数史上最長などの肩書をつけて、デカデカと・・・。まあ、松下村塾だって安倍のごり押しで世界遺産に登録されたところ。何なら、松陰神社の横に「安倍神社」でも建てて神として崇めたてまつればいかがかな。

外に出たが、今思えばこの歴史館の蒸し風呂で体力がだいぶ奪われたのかもしれない。

この後は少し上りになるが、奥にある東光寺に向かう。この後大照院に向かうのであれば、この東光寺にも行っておく必要がある。

東光寺は江戸時代の元禄年間、長州(萩)藩三代藩主の毛利吉就が開いた黄檗宗の寺院である。開くに当たっては京都の黄檗山萬福寺に範を求めて広大な敷地に伽藍を建立した。後に毛利氏の菩提寺となる。まずはベンガラ塗の総門をくぐり、拝観料を納めて山門に向かう。こちらは江戸後期の文化年間に建てられたものという。

緩やかな上り坂を進み、正面には堂々とした建物が鎮座する。大雄宝殿である。黄檗宗では、釈迦如来がいらっしゃるところという意味で、本堂を指す。黄檗宗の寺というのもなかなか珍しく、建物のところどころに中国の香りを感じるところである。

その東光寺で有名なのは、奥にある毛利家墓所。長州藩三代藩主の吉就以降、五代、七代、九代、十一代と奇数代の藩主とその夫人の墓がある。これに対して、初代秀就と、二代、四代、六代、八代、十代、十二代の偶数代の藩主の墓があるのが、この後行く大照院である。ちなみに、十三代以降は前回の中国観音霊場めぐりで訪ねた山口の香山公園にある。

家臣たちが寄進したという石灯籠がずらりと並び、荘厳な景色である。毛利氏のせめてもの威信とでもいおうか。なお、奇数代と偶数代で寺を分けているのは、中国古来の昭穆制(しょうぼくせい)にならったのではないかと言われている。太祖を中心に置き、太祖を背にして左側に偶数代(昭)、右側に奇襲代(穆)の廟を交互に並べたものである。レンタサイクル店の親父は、「お父さんとは離れ離れで、おじいちゃんと孫が一緒に祀られるんですね」と表現していたが・・。

ここから萩の町の三角州を形成する松本川から橋本川沿いにかけて走る。この辺りが結構きつかったが、まだ大照院にもたどり着いていない。とりあえずは萩駅を目指して自転車を走らせる・・・。

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