まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回中国観音霊場めぐり~第21番「観音院」

2020年08月25日 | 中国観音霊場

第20番の大照院の参詣を終え、玉江方面に向かう。ちょうど駅に出てきた。地図を見る限りでは次の観音院も程近いようだ。

小型漁船が停泊するが入江に差し掛かる。入江を挟んだ高台に変わった屋根の建物が見える。あれが目指す観音院のようだ。

港町の昔ながらの集落という風情の町並みに入ると、丘を削ったような地形に石段が現れる。ここが観音院だ。数十段とはいえ、ここに来て急な石段かと力を入れて上る。これだけでまた汗が出てくる。

そして観音堂の前に来る。ここで塀越しに外を見ると、橋本川の河口に架かる橋、指月山、萩の港町の景色が見える。この景色、萩の穴場ではないかと思う。

観音院が開かれたのは戦国時代、永禄年間とされる。本尊の聖観音像は大内義隆の念持仏だったとされている。毛利氏が萩に城下町を築いてからは、「玉江観音」として海上安全の護り観音として人々の信仰を集めたという。中国観音霊場のウェブサイトでの説明文に「大道無門に境内を開放していた」ので、幕末には志士たちが集まって激論を繰り広げていたとある。城を向かいにして激論というのも活気ありそうだが、気になるのは「大道無門」という言葉。

観音院は臨済宗の寺なので禅に関する言葉なのかなと調べると、宋の僧侶の言葉だそうで、大きな道には門がなく誰でも行き来できるのと同じように、仏の悟りへの道は広く開かれていてどこからでも入ることができるという意味。転じて、何でも受け入れる懐の深さという意味だそうだ。長州藩の保守勢力から抜け出して、志士たちが新しい時代に向けて動き出す舞台にもなったんだ・・というアピールも込められているのかな。

ここでお勤めとして、一段下がったところの本堂に向かう。こちらはお堂というより、どこか田舎のお宅にお邪魔したかのような佇まいである。

ちょうど寺の方の姿が見えたので、朱印をお願いする。しばらく待って納経帳を返してもらう時に、「これをどうぞ」と折り紙の包みをいただく。中は飴ちゃん。

萩の2ヶ所を回り、中国観音霊場の山口県の札所は終わりになった。回ってみて、大内氏、毛利氏と関係が深く、禅宗系の寺が多かった印象である。そのためか、本堂その他のお堂はシンプルな造りが多かったように思う。その中で、寺を通して山口県を回るという、一味違った観光、町歩きもできた。萩を大照院と観音院を軸に回るというのも、なかなか。これで翌日は浜田の多陀寺に行くことも可能だ。アクセスが難しい日本海側、コマをもう少し進めることにしよう。

この後は城下町を回って東萩駅に戻ることにする。ただ、目的の札所を回り終えてホッとしたのか、暑さがこたえるようになった。その中で橋本川を渡り、萩城跡に向かう。毛利輝元の像にも出会う。ただ、外から石垣だけ見れば十分かなと、中には入らずにそのまま自転車でお堀端を回る。

萩博物館というのがある。萩の歴史について紹介するスポットで、比較的新しくできたところなので(吉田松陰歴史館と異なり)冷房も効いているだろう。ただ、そこに入るのもしんどく、手前の木陰で座り込む。今思えばこの時点で熱中症の手前、下手すれば初期症状が来ていたかもしれない。四国八十八所めぐりで暑かった日のことを思い出すと、似たような状態だった。

次の列車まで時間があり、もう少し萩の町を回るだけの時間的余裕はあるが、身体のほうが参っている。博物館はパスして、城下町エリアも流すくらいにする。30年以上前に家族で来た時よりは、間違いなく暑さが厳しくなっているぞと言い聞かせながら・・。

何とか倒れることなくレンタサイクルを返却して、東萩駅のベンチで休憩する。駅舎内は風通しがあまりよくなく、早めにホームに出てベンチに座る。ちょうど日陰になっていて、時折風がそよぐ。当初の予定通り東萩宿泊にしていれば、今頃はシャワーでも浴びてベッドで休憩かなというところだが、この先もう1本列車に乗って益田まで行くことになる。

16時58分発の益田行きが入って来た・・・。

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