まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地を見る~気仙沼・グラウンドゼロ

2013年09月16日 | 旅行記B・東北

鹿折唐桑から1キロほど走って気仙沼の港に差し掛かる。2011年の6月に訪れて以来のことである。その時はまだ震災から100日というタイミングで、港のあたりも倒壊した建物がまだまだ残り、辺りは何だか焦げたような臭いもしていた。その時の訪問記事はこちら

Dscn2367今訪れてみて、かつてフェリー乗り場の立体駐車場だったところもきれいに整地され、外部からの訪問客用の無料駐車場になっていた。ここをベースに少し歩くことにする。あの歩いた時の記憶がよみがえってくる。

Dscn2371前回の時に「これだけは頑丈に残っていたなあ」という感想を持った「港町ブルース」の碑は、相変わらずそこで観光客を出迎えていた。

Dscn2372地元の酒である「男山」や「両国」の建物も倒壊していたのだが、現在は外部をフェンスとシートで覆われ「この建物は登録有形文化財です。国内外の募金により修理されています」とあった。ナショナルトラスト運動というやつかねえ。なるほど、津波で流されてきて鎮座しているだけの大型漁船よりは、伝統的建物で地元にも経済効果をもたらす酒造会社の復興のほうが地元のプラスになるだろうし、こういう形での文化財保護というのは理解の得られることだろう。

Dscn2355Dscn2358さて、私が前回の気仙沼方面で印象に残ったのが「グラウンドゼロ」というところ。2001年のアメリカ同時多発テロになぞらえての名前で、震災発生の14時46分を指し示す時計、漁で使うビン玉や大漁旗がなびくところである。その時は周囲を被災した建物に囲まれていたこともあって、よりそのメッセージ性が強調され、インパクトがあったものだ。

Dscn2357今回訪れてみると、周囲の建物は完全に解体され、このモニュメントというかオブジェの一角には草が茂っていた。自然に荒れるままというよりは、それもモニュメントの一つということであえて植えた様子のものもある。大漁旗こそなくなっていたが、広くなった(ように見えた)エリアではオブジェの数が増えているようにも思えた。

前回の記事で、この「グラウンドゼロ」を造った伊藤さんという方からありがたくコメントもいただいたのだが、伊藤さんは今でも町の復興のために尽力されているようである。ブログ「街角ブロガー~冒険と科学の日々」でその様子がうかがえる。震災直後はまず被災者への鎮魂、追悼ということだったのが、少しずつ時間が経つに連れて、こうしたアートを通しての活動に広がっているようだ。こういう姿を見るのは、何だかうれしい。

Dscn2384もう少し港町を歩く。かつては昔ながらの商店街があった一角ではプレハブながら福興商店街が並んでおり、食事だけではなくさまざまな店が置かれている。

Dscn2385そんな中で、建物の外でこういう形で「写真」が描かれている光景を見る。ここに写っているのは現在生きている人か、あるいは故人か。もし津波の犠牲者の写真だったら見ていてやるせない気分だし、生きている人ならばどういう意味があって写真を出しているのか。この後回ったところでもこういう光景を見た。それがフランス人の写真家で「ストリート・アーティスト」の肩書を持つJR(鉄道やないで)という人のパブリック・アートの作品というのを知ったのは、この記事を書くにあたって改めて気仙沼関連のブログや記事をネットで検索したことからである。

これは私の勝手な印象であるが、気仙沼というのは何かそういう創作意欲というのをかられる雰囲気があるのだろうか。塩釜、東松島、石巻、女川、七ヶ浜、南三陸、陸前高田と今回の旅で回る中で、震災から2年半経過してもまだ「食うや食わずや」といったところもあれば、ごく普通の生活も取戻しつつあるところもあり、さまざまな顔を見せてくれたが、こうした「アート」という面での復興に向けた取り組みは初めて見た。何か、アーティストの琴線に触れるものがあるのかもしれない。

・・・今回行ってみようと思ったリアスアーク美術館というのもそういうキーワードで結びつくのかもしれないな。

さて港町を少し歩いたところで時刻は昼近い。気仙沼にも少しずつ漁業が戻ってきており、何か魚を食べることができればな・・・・。

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