茶屋町から13時11分発の宇野行きに乗る。今は「宇野みなと線」の愛称がある宇野線の茶屋町~宇野間だが、日中は213系の2両編成が行ったり来たりする。ワンマン運転だが、途中の各駅がICカード対応のためか、全ての扉が開く。
進路を南東に変え、田畑が広がる中を走り、常山に到着。ホーム1本だけの駅である。目指す久昌寺は地図で見ると徒歩15~20分くらいだろうか。この区間は1時間に1本の割合で運転されていて、この後はせっかくなので終点の宇野まで行こうとすると、徒歩の往復と寺の規模がどのくらいかわからないがお勤めの時間を合わせると、ちょうど1時間後の列車に間に合うかどうかのタイミングである。この日は岡山泊なので、ここで1本遅れたとしても時間はどうとでもなるが。
駅名にもなっている常山の麓に沿って歩く。この山にはかつて常山城という山城があり、戦国時代は三村氏の一族である備中上野氏の居城だったが、三村氏が織田氏側についたことで毛利氏との勢力争いの前面にさらされることになり、毛利側の攻撃により落城した。落城の際には城の女たちの奮戦もあったと伝えられている。この常山城は後に毛利~宇喜多~小早川(秀秋)とこの一帯の領主が代わる中、江戸時代に池田氏が岡山藩を治めてからは取り壊された。今は城跡のほかに電波塔が建てられている。
歩いて20分弱で「久昌禅寺」の文字が見える。「禅寺」とあるように臨済宗の寺である。山門をくぐった境内は最近整備されたように見える。正面に釈迦如来を本尊とする本堂があるが、中国四十九薬師の本尊は左手の薬師堂に祀られている。お参りならこちらへと誘導されるようだ。
久昌寺の創建の年代や人物は不詳とされるが、戦国時代より前には存在していたという。寺の案内によると、先ほど触れた常山城が落ちた際の城主・上野隆徳の兄が臨済宗の寺の住職だったことを踏まえて、上野氏が久昌寺を創建した可能性が高いとしている。そして祀られている薬師如来も、もともとは常山城にて祀られていたが、城が落ちる前に難を逃れてここに移されたという。
薬師堂の前には金色が鮮やかな聖観音像、そして干支の守り本尊の石像が並ぶ。こちらの干支守りはいずれも達磨大師である。達磨大師を祀るのも禅寺ならではのようだ。
本坊の納経所を訪ねる。あらかじめ墨書された用紙に朱印を押して、こちらでも「お接待です」と、不織布マスクをいただく。
このタイミングなら次の宇野行きに間に合うかなと、再び集落を歩く。果たして、14時24分発の宇野行きに間に合った。
10分あまりで宇野に到着。「宇野バスが来ない宇野」である。中国四十九薬師めぐりも中国山地から瀬戸内に来たということで、せっかくなので宇野港から景色を見よう。
翌9日は札所めぐりから離れて四国に渡るのだが、もし宇高国道フェリーが健在だったら、宇野から高松までフェリーで渡るのも面白かっただろう。現在は高松に渡るなら直島、または小豆島経由となり、時間がかかる。宇野に泊まって翌朝一番の直島行きの便に乗れば、四国内での列車も当初の予定通り乗り継げるのだが、あいにくと宇野には私にとって手頃な宿がなかった。
宇野の沿岸に漂着したゴミや家庭からの不要物を集めて作ったオブジェ「宇野のチヌ」などを見て桟橋に着く。アートの直島の玄関口らしいスポットだ、その先には巨大なクルーズ船も横付け可能なスペースがあり、地元の人たちが犬の散歩や釣りを楽しんでいる。
南に見えるのは直島である。ちょうど直島便のフェリーが行き来する。こちらから直島を見るとちょうど正面には三菱マテリアルの精錬所があり、見る人によっては殺風景に感じるのだが、その南にはさまざまな作品が並ぶアートの島である。アートというと私には敷居が高い感じで、なかなか行こうという気になれない・・(その昔に一度訪ねたことがあったが、いろいろあって個人的にはあまり印象もよくなかったのも影響している)。
島々の景色を楽しみ、駅に戻る。宇野港には1時間ほどいたことになる。15時42分発の茶屋町行きで茶屋町まで戻り、16時09分発の岡山行き普通に乗り継ぐ。
児島から岡山行きとしてやってきたのが、115系の湘南色編成だ。ほとんどの編成が黄色一色に塗られているところ、3両×2編成だけ昔ながらの色で残っている。車内も当時と同じ配置のセミクロスシートだ。この編成に出会えるとは思わなかった。岡山地区でもしばらくすると115系の置き換えが始まるといい、こういう車両に乗る機会も今後貴重なものとなるだろう。アートよりこうした国鉄型車両のほうが私にとっては貴重な出会いである。
20分ほどだが懐かしい乗り心地を楽しみ、岡山に到着。まだ日は暮れていないが、その前に岡山といえばということで、例のミシュラン獲得店に行くことにする・・・。