まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4回九州西国霊場めぐり~特別霊場「興山寺」(臼杵の高野山)

2021年09月28日 | 九州西国霊場

九六位山にある圓通寺に参詣後、山の東側の道を下って大分市から臼杵市に入る。臼杵といえば石仏の町で、石仏はかなり以前に一度訪ねたかな。今回、八幡浜からフェリーで上陸してもいいかなと思ったところである。「水曜どうでしょう」の「サイコロの旅」第1回でも、東京からいきなり松山に来て、道後温泉に入浴した後、さらに西へということでフェリーで臼杵に上陸している。

山道から県道に出て、末広川に沿って下っていく。以後、国道217号線、国道502号線と順調に走っていく。臼杵といっても港や駅の辺りからはかなり西側だ。臼杵の石仏は見ようと思うが、大友宗麟の本拠地だった臼杵城(丹生島城)の辺りはこの九州西国霊場めぐりでは外れることになった。まあ、いずれ訪ねる機会もあるだろう。

国道502号線から南側の集落に入る。細い道が続くが、そのうち興山寺への案内板が出る。道の向こうには東九州自動車道の高架橋があり、その下を回り込んで高度を上げる。九六位山ほどではないが、ここでも上り坂が続くことになった。日豊線の最寄り駅である上臼杵から直線距離だと歩いて行けそうに見えるが、実際に来るとまた大汗をかきそうなルートである。

どこまで上るのかなと走らせるうち、最後は境内に入った。クルマを停め、本堂のほうに向かうと駐車に気づいたのか、若い僧侶が扉の向こうから出てきて会釈してくれる。「お詣りですか?」と訊かれ、「九州西国の・・・」と言うと、「ならば、あちらのお堂がご本尊なのでお回りください」と、奥の庫裡へ回るよう案内される。

興山寺の縁起は高野山にあるという。興山寺を開いたのは安土桃山時代、木食応其上人という。豊臣秀吉の紀州攻めで兵火が高野山に及ぼうとした時、この木食応其上人が秀吉に直談判をして高野山を守った。その後、上人は高野山にて青巌寺と興山寺を建てたが、明治になって興山寺が青巌寺に合併されて金剛峯寺と称された。これを惜しんだ山縣玄浄僧正が臼杵にて興山寺を再興し、山号も高野山とした。臼杵の人たちにとっても、臼杵に高野山が移ってきたとして親しまれる存在だという。

・・・と、公式サイトなどの説明文を元に書いたが、金剛峯寺って、昔は金剛峯寺でなかったのか?という疑問が出てくる。改めて見ると、金剛峯寺は元々真言宗の総本山としての高野山全体と同じ意味だったのが、明治の神仏分離の影響で、高野山真言宗の管長が住む寺に限定されることになったとある。

寺の本尊は無量寿如来で、九州八十八ヶ所百八霊場ではこちらが本尊である。九州八十八ヶ所百八霊場・・・これも九州がおいでおいでしているな・・・というのはさておき、九州西国霊場の本尊である十一面観音が奥のに庫裡に祀られているので、そちらを案内された次第だ。

仏間の十一面観音を前にお勤めとする。プロの僧侶が後ろに控えていて緊張する。お勤めを終えると、お接待ということか綴じ込み式の朱印とともに、お茶菓子をいただく。

ここでもう1枚いただいたのが、九州西国の第2番・長谷寺の朱印である。無住寺である長谷寺の朱印はここ興山寺で対応しており、ようやくここで朱印帳がつながる。先ほど、「2番の朱印を・・」とお願いした時、「いつお詣りされましたか?」と訊かれた。同じ中津の第3番と同じ日に訪ねたなと思いつつ、ここまでの朱印を持ってきていないので慌てて手帳を見て日付を思い出す。ちょうど3か月前のことである。

これで興山寺を後にして、山道を下って国道502号線まで出る。この日はここまでとして、国道を少し進んだ「臼杵湯の里」に泊まることにする。半日で慌ただしく札所めぐりをしてこの後はゆったりするのだが、実はその前にまた仏たちを拝むことになる。それは次の話として・・・。

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